読書メモ #1 『善と悪の経済学』 トーマス・セドラチェク


『善と悪の経済学』(economics of Good and Evil) 2015
トーマス・セドラチェク 著村井章子 訳

 学生時代、あんまり経済学の授業には縁がなかったけど(ただし、岩井先生の授業は例外。面白かったなあ。)、ここ2年程、自分の中で「経済学」という学問への興味・関心が湧き上がってきている。まぁそのへんの理由はまた別で言語化しておくとして、今回はトーマス・セドラチェク著『善と悪の経済学』を読んだのでその読書メモ。
 NHKの丸山さんの『欲望の資本主義』シリーズを見ていたので、著者のセドラチェクさんのことはぼんやりと認識していた。それからしばらく経って、森本あんり先生のブログを徘徊していたある日、あんり先生が経済学部の学生にこの本をおすすめしている新聞記事を発見。
 で、早速この本をググって目次をみてみたら「デカルト、スミスに並んでマンデヴィルに1章割かれているやんけ!」とちょっとテンション上がったので購入(マンデヴィルは修論で研究した思想家の論敵だったので結構興味がある)。目次はこんな感じ。

序章 経済学の物語 詩から学問へ
第1部 古代から近代へ
 第1章 ギルガメッシュ叙事詩
 第2章 旧約聖書
 第3章 古代ギリシャ
 第4章 キリスト教
 第5章 デカルトと機械論
 第6章 バーナード・マンデヴィルー蜂の悪徳
 第7章 アダム・スミスー経済学の父 
第2部 無礼な思想
 第8章 強欲の必要性ー欲望の歴史
 第9章 進歩、ニューアダム、安息日の経済学
 第10章 善悪軸と経済学のバイブル
 第11章 市場の見えざる手とホモ・エコノミクスの歴史
 第12章 アニマルスピリットの歴史
 第13章 メタ数学
 第14章 真理の探求ー科学、神話、信仰
終章 ここに龍あり

「日のもとに新しきものは無し」


 セドラチェクは「経済学」という学問が成立するより遥か昔、ギルガメッシュ叙事詩や旧約聖書の時代から経済への問いは論じられ続けていたとして、「見えざる手」をはじめとする経済学の主要なコンセプトの萌芽を古代のテキストの中から読み取る。
 スミスの「見えざる手」のコンセプトは、アリストパネス(古代ギリシャの喜劇作家)やトマス・アキナス(神学者)が既に指摘していたし、「分業」は、『ギルガメッシュ叙事詩』でのウルクの城壁建設の場面やクセノフォンの『キュロスの教育』の中で既に言及されていた。
 こんな具合で、セドラチェクは一般的な経済学の教科書では登場しないような古代のテキストを取り上げ、経済学のコンセプトにおける「日のもとに新しきものは無し」という事実を示していく。スミスが生きた18世紀から始まる「経済学の歴史」とは異なる、より骨太な「人類史の中の経済」が示されている。

「科学」としての経済学から「道徳哲学」としての経済学へ


 セドラチェクが本書全体を通じて主張しているメッセージは一貫している。それは、現在の経済学がその探求の範囲から善や悪といった規範的価値を排除し、機械論的・数理的な科学としての学問に偏っており、本来探求されてしかるべき善や悪といった規範的価値が十分に顧みられていないという点だ。人類の長い歴史の中で、「経済への問い」は同時に「倫理への問い」であった。しかし、現代の主流派の経済学がなそうとしていることは本来の経済についての問いからかけ離れているのではないか。現代の多くの経済学者は経済学の科学としての実証性に重きをおき、経済学は「価値中立的に世界をあるがままに記述する」としている。しかし、そもそも価値判断しないこと自体がひとつの価値判断であり、ギルガメッシュ叙事詩、聖書、古代ギリシア哲学の伝統を振り返ればわかるように、倫理を排除した経済学は全く馬鹿げている。経済学は価値中立装って数学的分析に終始するのではなく、もっと善や悪といった規範的価値を正面から論じるべきなのではないかというセドラチェクの主張は、さながら経済学における「定性復古の大号令」という感じ。

「倫理を始めさまざまな「ソフト」な要素は、数学的分析というケーキに乗っかった砂糖飾りのようなものだとよく言われる。だが、それは逆だ。数学的分析は、より深く広い経済学というケーキの砂糖飾りにすぎない。数字が飾ることを無視すべきではないが、モデル化できないことも無視してもいけない。」(p484)

(セドラチェクは主に経済思想の歴史を考察する中で経済学の倫理の重要性を指摘しているが、これとは異なる仕方で岩井先生もまた経済学における倫理の重要性を指摘している。岩井先生はマルクス主義的なイデオロギーを排して「科学」としての経済学を突き詰めようとした結果、「信任」という、カント的倫理を見出している。この点はまた別の機会に整理したい。)

 そして、その姿勢が強く現れているのが第1部第6章と7章のマンデヴィルとスミスの章。
 これまでスミスは「経済学の祖」として、「れわれが食事を期待するのは、肉屋や酒屋やパン屋の慈悲心からではなく、彼ら自身の利害にたいする配慮からである。」という『国富論の』有名な一文とともに、利己的な人間像を確立し、「見えざる手」によって個人の利己心が公益をもたらすメカニズムを見抜いた人物として、言及されてきた。
 しかしながら、そうした利己的人間像のみに着目した「冷たい」スミス像は短絡的であり、『国富論』以前の『道徳感情論』にこそ立ち返るべきだとして、次の『道徳感情論』の有名な一文とともに「暖かい」スミス像が強調される。

「人間というものをどれほど利己的にみなすとしても、なおその生まれ持った性質の中には他人のことを心にかけずにはいられない何らかの働きがあり、他人の幸福を目にする快さ以外にも何にも得るものがなくても、その人たちの幸福を自分にとってなくてはならないものと感じさせる。」

 人間本性の本質に利己心を見出したのはスミスよりも、「私悪即ち公益」を説いたマンデヴィルの方であり、スミスはむしろマンデヴィルを「完全に誤っている」として行き過ぎた利己主義の道徳哲学を批判していた。「見えざる手」の下で、個人の利己心を肯定する態度はスミスよりもマンデヴィルの思想に近いもので、スミスが描いていた人間像は所謂「ホモ・エコノミクス」のような、自身の利益を最大化させることを常に考えて行動するような単純な存在ではなかった。
 セドラチェクは、世間に流布している『国富論』のみをベースとした視野の狭い「冷たい」スミス理解に異を唱える。他者の喜びや悲しみに共感する社会的存在としての人間を描いている『道徳感情論』の幅広い内容を無視し、『国富論』のよく知られている箇所だけを重視すれば、それはスミスの意図とはかけ離れた結論になるだろうとセドラチェクは指摘する。
(この類の「暖かいスミス」像を強調する主張が、最近SDGs,ESG界隈で流行りつつあると感じるのは気のせいだろうか?『共感の経済学』(ジェシー・ノーマン)とか)。
 数学的な分析と倫理的な考察経済学の両輪であるべきであるが、倫理を論じるような規範的な部分の探求は、経済学が物理学をモデルとして「科学」としての客観性を研ぎ澄ませようとする中で失われてしまった。「経済学の祖」とされるスミスは、『国富論』の著者である以前に道徳哲学書である『道徳感情論』の著者であったのにも関わらず、新古典派経済学は『道徳感情論』の探求にあたるような、倫理についての探求を蔑ろにしているのではないか、こうした倫理の部分を今一度取り戻すべきなのではないか、というのがセドラチェクのメッセージである。二宮尊徳が『道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である。』と述べ、渋沢栄一が『論語と算盤』で道徳と経済の両立を説いたことが思い出される。

おわりに

 終章でセドラチェク自身が述べているように、本書は「経済学は数学的理解よりももっと幅の広い魅力的な物語だということを示そうと試みている」本だった
 歴史、哲学、宗教、心理学等、様々な学問分野の視点から複眼的に「経済」についての問いを論じている本書はとてもエキサイティングな一冊で、既存の学問分野を超えて、学際的な観点で考察するタイプの本がスキな自分にとっては結構ハマるタイプの本だった。ただ、欲を言えば、本書の中で批判対象としている機械論的、定量的な経済学の内容も掘り下げて欲しかった。(数理的経済学への批判がやや一方的なように感じた。)
 あと、参考文献が割と豊富で、これからの読書に繋がるタネがいっぱいあってよかった。(実際、「アダム・スミス問題」のところで紹介されていた『入門 経済思想史 世俗の思想家たち』ロバート・L・ハイルブローナー著を購入。これも読んだらメモっとこ。)
 というわけで、社会科学としての経済学の本では全くなく、経済思想の歴史を扱っている本、もっというと「思想史の中の経済」を論じている本として楽しんだ。そうした内容の本のタイトルが「〜の歴史、〜の思想史」ではなく、あえて「善と悪の経済学」とされていることにもメッセージ性を感じた。

この辺の「経済と倫理」はここ数年、自分の中でのホットトピックなので引き続き掘り下げていきたいところ。


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