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Happy IDDM Birthday

1 型糖尿病歴12年になりました♪


2012年2月29日。
1型糖尿病という診断が確定した日だ。

微熱がずっと続いている。風邪だと思ったけれども、何日経っても快復しない。喉が渇いて渇いて仕方ない。2リットルのペットボトルを何本も飲み干して、トイレに行くのが忙しい。心臓はドキドキ音を立てて心拍を刻むし、少し動くだけで息切れがして疲れてしまう。食べても食べても痩せてきた。
バセドウ病を発症したときと似ていたけれども、すでに甲状腺ホルモンは枯渇して、ホルモン剤を飲んでいる。
長年、診てもらってきた甲状腺専門医に「糖尿病のようですね。急激に悪化したようです」と言われて耳を疑った。2ヶ月前の血液検査では、糖尿のとの字も出なかった。太ってもいないし、血圧も低い。
これで糖尿病だなんて。

「とにかく脱水しないように。水分は充分に摂って検査に行ってください。話は通してありますから」
甲状腺医にそう言われて、総合病院に向かった。
バス乗り場を教えてもらっていたが、フラフラしてバス停を探す元気もない。タクシーを拾って、病院へ。
脱水するなとの言葉に、ポカリスウェットの1リットル瓶を何本も買い込んだ。
すでに診療時間は過ぎていて、とりあえず処置室で簡単な検査をするという。指から血を採って血糖値を測っていた若い医師が、チラとポカリやスポーツドリンクが何本も入ったコンビニ袋に目を走らせた。
血糖値は500超え。医師はいきなり
「そんなもん飲むからです!!  どれだけ飲んだんですか」
と、怒りまくった。
買ったばかりで、まだ、一口二口しか飲んでいない。
医師は、当時、言われていた甘いジュース類の飲み過ぎで起きる糖尿病だと思ったようだ。

その後、きちんと採血をした検査の結果、1型糖尿病の疑いが出てきたらしい。もう少し詳しい検査をしないと確定できないからということで、そのまま入院することになった。
その1年半前には肝炎で、同じ病院に緊急入院したばかり。
そして2012年は、その後も10月に胆石、11月には肝炎と、1年で3回入院という悪夢のような年になった。

翌29日、さらに精査した結果、たしかに1型でしたという診断が出た。ご丁寧に遺伝子検査までしてくれたらしく、その結果はもっと後で聞くことになるのだが、1型糖尿病を発症する可能性がある遺伝子はしっかりあった。
とはいえ家族親族、1型なんて人は誰もいない。わたしだけの突然変異の遺伝子か?  
なんでも北欧の人に多い遺伝子型だという。ひょっとしてご先祖さまのなかに北欧人がいた、とか?  ただ、同じ遺伝子はもっていても、見た目は胴長短足の完全日本人っていうのは残念すぎる。

仕方ない。わたしは覚悟した。わたしの身体は全く別ものになってしまった。同じわたしではいられないのだ。これからは、この身体と向き合っていかなくてはならない。

でも、どうやって?
対処の方法がまったくわからない。
不安しかなかったな。

診断が確定した翌日の3月1日は大雪だった。このころは写真にハマっていて、カメラ持参で入院していたようだ


とにかく何もわからなかった。
入院はしていたけれども、糖尿病患者のためのセミナーは毎日、受けさせられていたけれども、わたし以外の患者さんは全員2型糖尿病で、セミナーの内容はすべて2型糖尿病患者のためのものだった。
1型と2型では 発症の原因から、病気の機序も違えば、薬だってまったく違う。でも、患者数が圧倒的に少ない1型糖尿病についての専門的な説明は一切なかった。

痩せなければならない、血圧を下げなければならないという2型糖尿病の人のための説明の後で、太ってもおらず、血圧も低かったわたしは「1型の方はそう気にしなくてもいいですから」と言われただけだ。

食品交換表をもとにバランスの良い食事を摂ることは2型も1型も一緒だが、2型の人はとにかくカロリーを低くおさえるあれやこれやが大変そうだった。

1型の場合は食事の前に必ずインスリンを注射しなければならない。当時は、1回のインスリン量は医師の指示どおりに固定で打つことになっていた。正しい食事に合わせた正しいインスリン量を指示してあるから、間違いはないということだったんだと思う。それでも、次の食事の前の血糖測定で、数値が高すぎたり低すぎたりすると、インスリン量がよろしくないということになるので、それによって打つ量の指示が増えたり減ったりする。入院中にそういう調整を何度かして、退院後の生活に備える。そのための入院という感じだった。

いまからすると、ずいぶん乱暴な血糖コントロールだったなと思う。まさに「不適切にもほどがある」だ。
でも、12年前は血糖コントロールとかカーボカウントなどという考え方はどちらかというと邪道扱いだったし、現在ではダイエットをするときに普通に使われる糖質制限なんて、邪道中の邪道だった。

当時、わたしが指示されたインスリン量は、朝昼晩6単位ずつ。食事の前には必ず注射を打つ。
カチカチカチッと注射器の目盛りを6のところまで回して、ブチッとお腹に刺す。太股や腕でもいいけれども、お腹のほうが効きが早いとか、脂肪が多いから痛くないとかいうことだった。

1型糖尿病は、膵臓が分泌しているインスリンが出なくなる病気なので、そのインスリンを体外から注射で補うことが治療になるのだ。

そもそも健康な膵臓は、食事のたびに、つまり、血糖値が上がるたびに適量のインスリンを分泌して、血糖値が上昇しないようにしてくれる、とんでもなく優秀な臓器だ。その膵臓が壊れちゃったのが1型糖尿病。多くは自己免疫疾患で、膵臓のなかにあるβ細胞を自分の免疫細胞が壊してしまったということらしい。

ちなみに、なぜ、インスリンで血糖値が上がらないのか
といえば、メカニズムはこうだ。

食事をすると細胞のエネルギー源である糖が血液のなかに入って全身を巡るために、血液中の糖の量(濃度?)=血糖値が上がる。
そのとき糖を細胞に届けるべく働くのがインスリンだ。血管から細胞へ続く糖の通り道のドアの鍵を開けてくれるのがインスリンという感じらしい。
血液のなかからどんどん細胞へと糖が受け渡されていけば、血液の中の糖は減っていく。つまり血糖値は下がる。というか健康な膵臓は、食事をしても血糖値がほとんど上がらないように微妙な調節をしつつインスリンを分泌してくれているらしい。
すごいんだよ、膵臓って。というか人間の身体ってほんとうによくできている。素晴らしいメカニズムなのだ。

これを人為的に身体の外からやろうとしても、これがなかなかうまくいかない。

最近は勉強会にも行かないし、本も読まないから12年経って、もっと違う考え方、とらえ方があるのかもしれないけれども、現在のわたしはこの考え方を元に、血糖のコントロールをしている。つまり食事のたびに同じ量のインスリンを打つのではなく、食べる糖質の量に合わせてインスリン量を決めて打つ。

わたしはの場合、注射1単位で糖質約15グラムが処理できる。季節によって、気温によって、運動量によっても15グラムは前後するけれども、そこはまぁ、あとから調整という感じかな。

この1単位で糖15グラムは、発症まもないころに繰り返した自己流人体実験で、会得したような気がするけど、違うかな。
とにかくご飯を100グラムを食べて、30分おきに血糖値を測り、何時間でピークがきて、下がってくるまで何時間かかるかを実測したりしまくった。

実測結果を手書きでグラフに。
グラフにすると
血糖のアップダウンが一目でわかる。

わたしは緩徐進行型の1型で、ゆっくりゆっくり年月をかけて膵臓(詳しくはランゲルハンス島のβ細胞)が壊れていく。そのさなかに病気が見つかったことになるので、当初はまだ幾分、自己分泌のインスリンが出ていた。
まったく注射を打たなくても、時間をかければ血糖値は下がったから、多少、乱暴な実験もできていた。

もちろんインスリンが完全枯渇した人でも、食べた分以上に糖を使う活動をすれば、血糖値は下がるそうだけど。

1型糖尿病のセミナーで、登壇して体験談を話してくれたプロレスラーの方が、たしかそんなことを言ってたな。
「あんこ食べたら、スクワット100回やればいい」って。

今となっては、自分でも読み解けないメモ
血糖記録用のアプリを教わるまでは、
ほぼ日手帳に書きまくってた

右も左もわからない状態で、血糖コントロールのコの字もわからないまま退院したわたしは、手さぐりで生活していくしかなかった。
周囲にも近親者にも1型の人はいない。これまで聞いたこともない。
取材の仕事で1型糖尿病じたいは知っていたけれども、そのころはまだ「小児糖尿病」と呼んでいて、子どもの病気だと思っていた。まさか50歳をすぎたわたしが発症するとは夢にも思わなかった。

助けになったのはツイッターだ。
退院直後にツイッターで1型糖尿病の方の投稿を見つけて、光が見えたように思ったものだ。
血糖コントロールの悪戦苦闘をつぶやくと、コメントがついたり、リツイートされたりもして、また新たな1型さんへと繋がっていった。そこでいろんな知識を身につけ、1型だけの勉強会や講習会へと繋がっていった。

1型メンバーが集まるFacebookにも参加した。患者同士つながって、あのときどれほど心強かったことか。
1型の集会や宴会で食事をするとき、みんなが一斉に血糖値を測り、みんな一斉にインスリンを打つ。これが安心以外のなにものでもなかった。
「何単位打つ?」
「3だよね~。わたしも」
「そろそろ追加打っとこうかな」
なんて会話も、臆せずできる。

健常の人との宴会では「カンパーイ」と言ってみんなで一斉に飲んだり食べたりを始める時、1型のわたしは注射を打つ準備をしなければならない。そこに、タイムラグが生じる。
食べ始めたみんなが「あ、これ、おいしいね」などと会話が弾み出してからも、ひとり血糖を測ったりインスリンを打ったりする自分が歯がゆくて、えもいわれぬ孤独感を感じてしまっていた。
しかも宴会だと、どれくらいの糖質量の食事になるかは全部が出てこないことにはわからない。仕方がないから適当に打つのだけれど、発症間もないころはインスリンの適量すらわかっていないので、これで大丈夫かどうか常にヒヤヒヤしながら食べたり飲んだりしたものだ。

一度、まだ6単位ずつ固定打ちを指示されていたころ、当時の担当編集者と打ち合わせを兼ねて食事をしたことがあった。
食前に6単位打ったのはいいけれども、高級割烹だったので少しずつ少しずつ時間をかけて料理が出てくる。しかも糖質の少ない、いや、ほとんど糖質0のお造りやら、お肉やら、お野菜やらがほんとうにちょこっとずつ出てくる。
それぞれはきわめて美味しいのだけれど、そのうちなにやら手がブルブル震え出し、冷や汗がドバーッと出て止まらなくなって焦ったことがあった。
少々危険レベルの低血糖だった。
6単位も打っていたら、せめて30分以内に糖質の塊であるご飯をガッツリ食べなければいけなかったのだ。
ところが糖質ほとんど0のまま、会食開始からすでに1時間半が経っていた。

慌てて、ブドウ糖を口に放り込んだが、当時の補食用ブドウ糖は1コ15グラムだったかなぁ。吸収も早いから今度は一気に血糖値が上がったらしく、一気にボーッとしてきて眠たくなった。

そんなこともあったなぁ

と、いま、なつかしく思い出す1型糖尿病12年。
4年に1回しかこない閏年の今日29日が発症記念日だから、3回目の誕生日なんだけれどね。
どうにかこうにか12年、生き延びた。
Happy Birthday, My IDDM .
IDDMとは1型糖尿病のこと。インスリン依存型の糖尿病という意味だ。

あのころの心もとなさ、不安や孤独に比べれば、脳梗塞なんてたいしたことないような気もするが、こちらはこちらで再発の恐怖、寝たきりの恐怖、死の恐怖がある。
いろいろ病気をしてきたけれど、死に直結する病気は今回が初めてだったから、やはりいろいろ考えた。
考えたわりには、何も変わっていないのだけどね。

Facebookと距離をとるようになって、1型のみなさんとも疎遠になってしまった。
けれども、発症当時の孤独と恐怖を払拭していただいたみなさんへの感謝はいまもある。ただ、ただ、大勢が苦手だったという自分自身に気づいてしまったわたし自身のふがいなさを申し訳なく思うばかりだ。
たくさんたくさん助けていただいた癖に、それをお返しできていない。だから、バチが当たっちゃったのかな。

脳梗塞の原因のひとつして、糖尿病だとは言われてはいるけれども、血糖コントロールは優等生でずっと糖尿病の指標になっているHbA1cは6.0〜6.2をキープしてきた。健康な人と同レベルの数値だ。
たしかにここへきて急に6.5になったけど、春先はただでさえ上がりやすいし、主治医の見解は、まだまだ、全然OKの範囲だという。
血液サラサラの薬を飲むようになって、血糖値の動きが変わったかなぁという気もしないでもないけれど、糖尿内科の先生も脳神経内科の先生も何も言わないから、大丈夫なんだろう。

あぁ、どんどんとりとめがなくなってきた。落としどころも見つからない。
とにもかくにも

1型糖尿病歴12年!!  
おめでとう、 わたし♪

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