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短編小説を読んでみる⑦正岡子規『仰臥漫録』食べる!食べる!食べる!

薄い本が好きでバッグにサッと入るくらいの文庫本を購入してきました。まだ読んでない本が本棚に何冊かあり、この機会に読んでみることにしました。薄い本とはここでは200ページ以内の本のこと。

さて今回読んだのは、食べ物の名前がたくさん並んでて面白そうだなーと思い購入した本です。

『仰臥漫録』『病状六尺』

正岡子規著 岩波文庫

私は料理はさほど好きというわけではないけど、人が何を料理して食べたのかに興味があります。

子規はもっぱら食べる専門で、大食いの部類に入るでしょう。食べては出し、出しては食べ、食べすぎては腹痛を起こし、痛みに絶叫します。もともと結核を患っており、結核菌が脊椎に転移し脊椎カリエスを発症していました。

正岡子規


この『仰臥漫録』は、既に死の床にあった子規が病の痛みの合間合間に飲み食いし、俳句を詠み、絵を書き、客人を相手した、亡くなるまでの約一年間の日記のようなもの。

子規は脊椎に膿がたまり皮膚から出て身体に穴を空けながらも、食べることを楽しみにしていました。

例えば、ある日の食事は

九月十一日 曇
 便通及繃帯取換
朝飯 いも雑炊三碗 佃煮 梅干
 牛乳一合ココア入り 菓子パン
 便通
昼飯 粥三碗 鰹のさしみ 蜊汁
間食 煎餅十枚ほど 紅茶一杯
夕飯 粥三、四碗 きすの魚田二尾 ふき膾三碗 
   佃煮 梨一つ

正岡子規著『仰臥漫録』より

かなりの食欲です。食べすぎて吐くこともあったようで、後始末のことやら考えるともう少し控えめにしてもと思うのですが、そこはお構いなしで元々活動的で大食漢の子規が身動きがとれなくなったのですから、看病している母親と妹・律は子規のことだけ考えて毎食毎食心を砕いていたことでしょう。

カツオの刺身、わらさ煮、めじの刺身、まぐろの刺身、鰻の蒲焼、酢牡蠣、ドジョウ鍋、かじきの刺身などなど。

毎日の食事には大抵魚が入っていて、あとは煮物やら漬物、汁物にフルーツ。間食に菓子パンも食べたりしますから、子規の看病をしながらこれだけの食事の材料を手に入れて料理するのは並大抵ではありません。さすがに魚屋には注文したものを届けてもらっていたようで、魚が来なければ母が魚屋まで取りに行っていたようです。子規はそういうこともきちんと書き留めています。

子規は1895年、日清戦争に記者として従軍しその帰途、大喀血をしました。その後神戸で静養し、一度は良くなったものの、東京に戻ると病状が悪くなり
寝たきり状態に。亡くなったのは1904年ですから、かなりの期間闘病していたことになります。

この頃の正岡家の収入は、新聞「日本」に連載していた随筆の稿料四十円と俳句を中心とした文芸雑誌「ホトトギス」からの十円、合計毎月五十円でした。三十円の収入があれば一家の生計がやっと成り立つ時代なので、暮らしにはさほど不自由なかったのかもしれません。ただ医療費もかかるし、生活は慎ましいものだったと思います。ある月の支払いなどは食料関係だけで約三十二円だったそうですから、収入のほとんどは食べ物に消えていたことになります。

魚の良質なタンパク質は子規の身体を随分助けたと思います。脊椎カリエスは通常、食欲不振になるそうで病が進むと衰弱するのも早いのですが、子規の場合は旺盛な食欲と俳句や短歌への情熱が生きる原動力となり、長く病に押し勝つことができたのでしょう。

死の最後の一年間も新聞への随筆の連載を続けました。それが『病状六尺』です。同じ時期に新聞の連載とそれとは別に私的な日記を書き続けたのですからたいしたものです。

病はときに精神的不安を呼び起こし、そのため錯乱し、本人からみても異常な状態になることもあったようでそのあたりも包み隠さず書き残しています。

十月十三日 大雨恐ろしく降る 午後晴
 今日も飯はうまくない 昼飯も過ぎて午後二時頃天気は少し直りかける 律は風呂に行くとて出てしまうた 母は黙って枕元に座って居られる 余は俄かに精神が変になつて来た 「さあたまらんたまらん」 「どーしやうどーしやう」と苦しがつて少し煩悶を始める いよいよ例の如くなるか知らんと思ふと益乱れ心地になりかけたから「たまらんたまらんどうしやうどうしやう」と連呼すると母は「しかたがない」と静かな言葉、どうしてもたまらんので電話かけうと思ふて見ても電話かける処なし

正岡子規著『仰臥漫録』より

この後、子規は母を使いに出し、一人きりの部屋で錐で死のうと思うが恐ろしさもあり、考えるうちにしゃくりあげて泣き出してしまいます。

正直な人。取り繕うことなく、書いています。

子規は絵画の影響から短歌や俳句を写生的に表現することを提唱していました。自分の日記も写生的に起こったことをそのままに書き残したのでしょう。

写生的に表現するとはどういうことでしょう。
どこにでもある風景を写真のように切り取っていくこと。
これは誰もが自分なりに様々な事象を言葉で切り取れるわけですから、間口が広くて入りやすいです。わかりやすいけど、難しい。誰かと比べてみると歌のうまいへたがやはり、ある。そういうのがまた面白い。
今でも、短歌や俳句はますます人気があります。Twitter(今はX)が日本に根付いているのも、もともと短い言葉で自己表現することに親しんでいるからだと思います。今の時代に子規が生きていたら、Twitterに俳句を毎日投稿したことでしょうね^ ^

ところで、1898年愛媛県松山市で柳原極堂により創刊された『ホトトギス』はやがて子規の薦めで高浜虚子によって東京で出版されることになりました。

その雑誌がまだ続いているんですね!素晴らしいです。


子規は1904年9月19日に亡くなりました。
17日まで新聞に連載を続けたそうです。

“ホトトギス”は「鳴いて血を吐く」といわれる鳥です。この鳥の名の漢字表記が『子規』。
ホトトギスは永遠に高く自由に飛んでいて欲しいです!

ここまでお読みくださり
ありがとうございました🌻

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