見出し画像

【氷屋さん】

「はな子ちゃーん」


「は~い おばあちゃん、何ぃー」と、おばあちゃんの呼ぶ台所にいくと、「ちょっと黒蕎麦買うてきてくれるか?」と、おばあちゃんはお財布から小銭を取り出していた。「うん。わかった、行ってくる!」預かった小銭を握りしめ、私は玄関へと向か

う。


玄関には、おじいちゃんの大きな平たい黒革のつっかけと、おばあちゃんの小さなつっかけがあり、私は自分の靴には目もくれず、おばあちゃんのつっかけを履き、ガラガラガラッと勢いよく玄関を開ける。
「牛頭町の高野です言うてな~」というおばあちゃんの声を背に「は~い」と返事は風に乗り私は駆け出していた。


闇市の氷屋さんは牛頭町のおじいちゃんの家からすぐの商店街の中にあり、目と鼻の先にあった。戦後闇市がたっていた名残りから、商店街の一角は通称闇市で通っていた。
氷屋さんの打つ黒蕎麦は絶品で、蕎麦が黒っぽいため、牛頭町のおじいちゃんのところでは『黒蕎麦』で通っていた。


氷屋さんの家の奥には井戸があり、その水がいいのだとおばあちゃんは言っていた。

『あ~だから氷屋さんの氷は、いつも曇りなく透明なのだな』と、家の氷を見ては疑問に思っていた解を得たようで私は1人得意になったのだが、蕎麦打ちはいつ頃からどういった経緯で始められたのかまでは頭がまわらず、おばあちゃんに聞いておけばよ

かったと思っている。


闇市の氷屋さんは、おっちゃんとおばちゃんと息子さん(通称:にいちゃん)がいて、商店街のお餅屋さんの隣にあった。

氷屋さんの前を通る時、作業場の大きな扉があいていれば、にいちゃんが、その肩ぐらいまである高さの四角い氷柱を、奥から、棒のようなもので引っ張り滑らせている姿や、時にはおっちゃんとにいちゃんとが、大きな鋸のようなもので、シャッ

シャッシャッシャッと、なんとも子気味良い音をたてながら、リズミカルに氷を切り分けている姿を見られることもあった。

氷が出ている時にその前を通ると、ひんやりと冷たい冷気が流れてくるので、暑い夏は心地よく、氷が出てることを期待した。


その作業場を通り過ぎるとすぐに、知らない人は見過ごしてしまうような、氷屋さんの家につながる勝手口の引き戸がある。

私も以前、勢い余り通り過ぎてしまい、慌てて引き返したことがあったから、以後用心し、作業場を過ぎたらスピードを落とし、ゆっくりと扉を探しながら歩くようにしていた。

私は扉を見つけ、少しほッとして、カラカラカラと静かに戸を開けた。


「こんにちは~、すみません~」ほの暗い戸内に入り、奥へと声をかける。

・・・。

もう一度大きな声で、「こんにちは~」と言うと、

「は~い、すぐ行きますよって~」と奥から氷屋のおっちゃんの声がした。

『あ、おっちゃんだ』私はおっちゃんの声が聞こえ、内心ドキドキした。

いつも私が黒蕎麦を買いにいく時にはおばちゃんがいて、おっちゃんに応対してもらうのはその時が初めてだったからである。


牛頭町のおばあちゃんに言われたように「牛頭町の高野です。黒ソバ3つください」と言うと。「はいよ。あ、高野さんとこのお孫さんですか?」とおっちゃんは優しく微笑み、ゆっくりと聞いてくれた。「はい」と答えると。

「ああ~そう、おじいちゃんおばあちゃんとこに遊びに来てるんやな。そらええわ。」と言いながら、油紙をピッと吊り棚から引っ張り出して、蕎麦玉が入っている生舟の木蓋をあけて、黒蕎麦を3玉ではなく、ん?何だか多いような気がする を長い菜箸で入れてくれた。


『私言い間違えたかな?おっちゃん数を聞き間違えたのかな?私の見間違いかな?』と

私が色々と考えていると、奥から、おばちゃんが首から上だけを出して、チラリとこちらに目をやる。

私は「あ、こんにちは」と言うとおばちゃんは「いらっしゃい」と言って一瞬ニコリとしたが、おっちゃんに何か一言二言云うような仕草をしたように思うのだが、おっちゃんは気にする様子もなく、私に『内緒やで』というふうに、口の前で人差し指を立てた。

私は『あれ?やっぱりおまけしてくれたのかな』と氷屋のおばちゃんに気をとられつついたのだが、おっちゃんは、いつもおばちゃんがするように、油紙で蕎麦玉をササっと包み、新聞紙でくるんで白いビニール袋に入れてくれ、私には3玉買った際のお釣りをくれた。

私は少し緊張しながら、「あ、ありがとうございます」と言うと、「はいよ、毎度おおきに!」と気持ちの良い元気な声で言ってくれたおっちゃんは、何も特別ではない様子で奥へと戻っていき、私は氷屋さんを後にした。


氷屋さんを出た私は、おっちゃんが、絶対におまけしてくれたように思い、早くそれを確かめたくて、急いで牛頭町のおばあちゃん家へと走った。

「ただいまーーーーー」玄関を一気にあけて、つっかけはあっちこっちに脱ぎ散らかしバタバタと急いで台所に入る。
「や~はな子ちゃんお帰り、早かったなぁ~」と言うおばあちゃんに、
「今日はおっちゃんやった、私おっちゃん初めてやった、、それで、それで、すごいんやで!多分やけど」と言いかけると、
「あ、おまけしてくれたんか」と、おばあちゃんは言うのである。
「うん!多分そう!なんかいっぱい入れてくれてたと思う。ちょっと開けてみて、開けてみて」と買ってきた黒蕎麦の袋をわたし、油紙をおばあちゃんに開いてもらうと、なんと、5玉入っていた。
「わ~~おまけしてくれてる、すご~い、すごいすごい!」と私は人生で初めてのおまけに感激し、おばあちゃんはその様子に目を細め、「おっちゃんやったらな、いっつもおまけしてくれるんやし。おばちゃんはな、キッチリしてるから、絶対数通りやし」と言った。
それを聞いて、おっちゃんをいぶかしげに見ていた氷屋のおばちゃんの様子に合点がいった。
『あ~なんて素敵なおっちゃんやろ。』おばちゃんには申し訳ないが、私は氷屋のおっちゃんが大好きになった。

おじいちゃんは出かけていて不在だったので、私はおばあちゃんと黒蕎麦を食べた。
今日は熱々の黒蕎麦だ。おつゆには鶏肉の出汁が出て、刻み葱と刻み海苔がたっぷりのった絶品だ。

私が同じ手鍋でおばあちゃんと同じように作っても、おばあちゃんの黒蕎麦の味と同じにならず、不思議で仕方がないと長らく首を傾げることになるのだが、それはもっと後のこと。

いつもの美味しい黒蕎麦をおばあちゃんと二人すすりながら、私は氷屋のおっちゃんの優しい笑顔を思い出していた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?