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わたしの好きな文学部のこと。


 わたしは文学部に所属している。学部の垣根など本来は関係ないのだろうけれど、わたしは自分のやっている学問とそれを包む人文(科)学が好きでしかたがない。

 大学3年になって(まだまだ未熟だけど!)やっと自分で研究できるようになった。時には進まなくてもどかしいし、あまりに対峙しようとするものが大きすぎて苦しくなる。けれど、自分の分野の研究はとてもたのしい。時間を忘れてしまうほどにたのしい。好き!と声に出して言いたくなるほどたのしい。だから、いつかのわたしが研究に疲れちゃったときのために、わたしの思う人文学の好きでたまらないところを残しておこうと思う。

 わたしは今、戦争や公害、東日本大震災・福島原発事故などの、それ自体にもその継承についても困難さがともなう災禍の経験や記憶を継承することについて学んでいて、今は水俣病事件をフィールドにしている。
 今とっている手法としては聞き取り調査、生活史調査を用いている。災禍の当事者の聞き取り調査をするためには、まずその災禍そのものについて学ばなければいけない。一通り学んでみて(それでも氷山の一角なのだけど!)初めて、その人の書いた著作や過去に言った言葉の意味がわかってくる。その人についてある程度わかったら、それを元にインタビューガイドを作成して聞き取り調査をして、それをさらに分析する。
 このインタビューガイドを作る過程は奥深くて、とてもおもしろい。人間の半生なんて、1〜2時間で聞けるわけではないわけで。でも、だからこそ、事前になるべく相手のことを知っておく。そして何を聞いたら自分が明らかにしたいことの手がかりが得られるかを考える。これもとても難しくて奥深い。この言い方は分かりづらいかな、この言い方なら具体的に言えるかな、あぁでもあまり決めすぎたら自由に引き出せないかな。
 ついに聞き取り。なんにも相手のことを知らなくては、相手も1から説明するだけで終わってしまう、言葉を選ばないならば舐められてしまう。調査は相手の心に踏み込むことで、そこには暴力性があるから失礼なことはしてはいけない。かといって、全部かっちり決めていたら相手を焦らせてしまうかもしれない、自分が予想できなかった方向に展開していくのがたのしいから、決めるのは方向性だけに留めておいて「対話」がしたい。

 こういうとき、わたしは相手から紡ぎ出される言葉に全身全霊で集中する。あなたのことを知りたいです、教えてください、と。語ることは信頼関係がないとできないから聞き取りはそれ単体では成り立たない。わたしは経験が浅くて、まだ関係性をつくる最初の段階にいるから、せめて相手に誠実で、真摯でいたいと思う(もちろんある程度関係性ができてからも。)

 こうやって、この分野について研究するうちに、他の言語学や歴史学、文学、宗教学、人類学についての見方も少し変わってきた。文字を読んでいる時、言語を、非言語的なものを学んでいる時、直接今生きている誰かと対峙していない時も、わたしはその中に他者の存在を見つけ、必死に知りたいと願いながら、読んだり見たりする。これを生み出した者のこと、書いた者のこと、書かれた者のこと、少しでも知りたくてぶつかっている。

 前に、「(例えば水俣病患者のような、何か特徴的なものを持つ人だから、あなたは聞き取りをするんじゃないの?(解釈違ったらごめんなさい)」と言われて半年くらい答えられなかった。今でもちゃんとは答えられないけれど、今答えるなら、そんなことはないと答える。わたしはきっと、他者が好きで、知りたい、わかりあいたいと思っているのだと思う。だから特徴的な災禍に関わっているかは、根本的にはどちらでもよいのだ。

 似たような感じで、わたしは人文学を学ぶことは、異なる他者となんとか共存するためのヒントになると思う。他者と自分は同じではない、ここしばらくでとてもそれを感じてきた。他者はわからない存在で、わたしに想定できる範囲のわからない以外にもたくさんのわからなさがあって、中には生理的に嫌悪してしまうものもあるかもしれない。ただ、そこで暴力的な手段で排除したり、無視したりだけはしたくない。分かり得ないものへの恐怖から自らを守るために不寛容になりそうだけど、それだけはしたくない。

 映像で、文献で、自分と遠い距離の人のことを読み、理解し難い、と思う。それでもその時の彼らの合理性を理解したくて必死に読む。かといって近い距離だとうまくいくと思うとだめだ。いつも接している相手でさえ、情報量は文献よりはるかに多いのに、それでも分かり合えるとは限らない。似てると思ったら違うところだらけ。分かりあいたくて近づくけど、分かり合えることもあれば、分かり合えなくても余計傷つくこともある、それでもまた分かり合えることを諦められなくて近づいてしまう。ヤマアラシみたいなジレンマ。

 それでもわたしは、わかりやすい何かに安住することはしたくない。他者をわかろうとすることを諦めたくない。遠くても近くても分かり合えなくても、全てが重なり合わないばらばらのままでいいから、わかりあおうと近づくのをやめたくないと思う。それが、分かり合えない他者を排除することなく、「なんとか」やっていくためのヒントになるのだと思う。

 毎日、目の前の/文字の中の/映像の中の/声だけに存在するあなたに、あなたのことを分かりたいです、知りたいです、どうか教えてください。という姿勢で向き合いたい。それをずっと続けたいと思う。


 こんなわけで、最近わたしは研究でも生活でもこんな感じで考えている。



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