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「意識」の誕生あるいは「非ー自己責任論」

自分という意識について考えてみました。
2022年5月10日のブログからの展開として)
 3000年前まで人類は「意識」をもっていなかった。遠い昔、<自意識>はなく、命令を下す<神>とそれに従う<人間>に脳内は二分されていたらしいのである。「神々の沈黙」のジュリアン・ジェインズによれば、「自己同一的な私」が人類史に出現してきたのは比較的新しく、今から3000年前(紀元前1000年ごろ)であった。それ以前の人は、自分という意識がないので、右脳が発する<神>の声に従って行動していた。その証拠としてジェインズは、ギリシア叙事詩イーリアスにおけるアキレウスなどの登場人物がすべて神の指示のもとに行動していることをあげている。二分心の時代には神は「実在」した。そこでは完全な服従があり、考える主体は存在しなかった。 *1
 ジェインズの壮大な仮説にまでいかないにしても、ニーチェもすでに、ギリシア人は人間の狂気、悪行は、人間自身が悪いのではなく、神がそのヒトにそれを及ぼしたと考えていた。「ただわれら神よりのみ悪は来たる。」人間たちを正当化するために、神は自ら過ちを引き受けてくれていたのだ。(キリスト教の人間の原罪説やプロテスタントの罪の内在化、自己責任化とはエライ違いで、よっぽどこのほうが人間は救われる。)
 中井久夫もまた、イーリアスが書かれたホメーロス的世界においては「一般に彼らは行為の結果だけを論じ、内的動機には立ち入らなかった。」と述べている。*2 その時代のギリシアでは、古代オリエントと大きく異なって、呪術や魔法を知るどころか、魂あるいは人格についての明確な観念が欠けていたとされる。その根拠として:
・自分の「属性」と容認できるものは、技能に限らず、感性や性格までも「知っているもの」とされた。すなわち「乱暴者」ではなく「無法な事柄を知っている」と表現された。
・それ以外の、自分の決定・処分可能性の範囲外にあるもの、たとえば、内臓の動き、着想、忘却、突発的勇気、そして狂気などは、「知らないもの」つまり超自然的外部(神、悪霊、テュモス:thymos"胸腺")の声、干渉に帰せられた。神の声という免責によって、ギリシア人の最も重要視していた宗教的感情である「羞恥(アイドース)」は守られることになる。
・つまり、ホメーロス的人間においては「理性」対「非理性」の対立ではなく、「知っているもの」対「知らないもの」の対立であった。
・ギリシアでは神々に様々な個性を与えることによって、古代オリエント的な魔術や呪術の宗教に堕ち込む可能性を消去したのである。

 なぜ、「意識」が発生したかについては、ジェインズも色々理由をあげているが、やはり文字の発明によって、これまでの口承モードでの記憶と暗唱による主観と客観の混同から、覚えるべきことを批判的に対置できて検証できるようになったことが大きいのだろう。イーリアスは紀元前900年ごろに成立したとされて、口承モードでの記憶をちょうどぎりぎり文字化できたので、神の声が脳内で聞こえたその痕跡が残ったのである。神の声を聞ける人は徐々に減っていって、古代の「巫祝王」(@白川静)や巫女がその役割を担っていた。白川静によれば、「聖」とは字の原義において神の声を聞きうる人の意味であった。
 人類が言葉を使いはじめたのが5万年前で、原文字の誕生は紀元前6000年、紀元前3000年代に楔型文字やヒエログラフ、1300年代に甲骨文字が成立した。徐々に文字モードが進化して、紀元前6世紀に至って一挙に世界宗教が爆発した。孔子も釈迦もソクラテスも、そして旧約聖書の原典成立もちょうど同時期なのだ。つまり神は脳内に完全に実在しなくなったので、宗教が必要とされ発明されたのである。

 こんなことを考えてみたのは、最近の何かにつけて「自己責任」を押し付けてくる風潮に異議を申し立てたかったからである。悪いことをしたとして、その事象の悪さだけを責めるのではなく、それを生み出した人格全体を責める傾向が日本には強いのではないか。過ちを犯した事象についてのみ謝罪すればいいのに、日本人は何か全面的に土下座して謝罪しなくてはならないと思ってしまう。電車に乗るたびに5分の遅れをいちいち謝罪する車内アナウンスを聞いて、こういう姿勢こそが、駅員に食ってかかるモンスターをむしろ培養しているのではないかと思う。うるさいから車内アナウンスは一切やめてはどうか。
 これに比べて、古代ギリシアでは自己責任どころか自意識もないので気楽である。当時は苦しいストレスや意思決定を迫られるたびに、人は「神」を呼び出して決定してもらっていた。全ての過ちは、神か何かのせいにすればよかったのだ。
 ただ、現在、神の声が聞こえてしまうのは少しまずくて、統合失調症になってしまうかもしれない。多重人格のビリー・ミリガンは幼児期に性的虐待を受けていた。ストレスに対処するために、自分という意識を乖離してばかりいると、統合できなくなるらしいのだ。

(補足:2022年6月20日)
 中島岳志氏によれば、ヒンディー語(5億人)では、「私は〇〇である」という「主格」とは別に、
「私に風邪が入ってきた」←「私は風邪をひいた」
「私に嬉しさが留まっている」←「私は嬉しい」
というように、自分の意思によってコントロールできない現象について、「私に〇〇がやってきて留まっている」という言い方「与格」で表現するらしい。*3 コロナにかかったり、不倫をしたりして責められているけど、不可抗力だから仕方ないじゃん、という感じで、あまり自己責任に追い込まれない発想法が根付いているということである。私にまつわるすべてのことに、私は別に責任を負わなくてもいいのだ。
 こうしてみると、古代ギリシア叙事詩にさかのぼって、神の声があり、脳が二分心になっていて、「自己意識」がなかったというおおげさな、かつ考古学的な議論をするまでもなく、いまでもインドの5億人の人々の思考を支配している、自己責任を軽減する言い方があることがわかって、面白いと思う。
 
*1 ジュリアン・ジェインズ「神々の沈黙ー意識の誕生と文明の興亡」
*2 中井久夫「分裂病と人類」
*3 ミシマ社ブログ 2021/01/27

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