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洛北・修学院をめでたお方は?            そのⅠ

後水尾《ごみずのお》天皇です 1596年~1680年           見出し画像は上《かみ》の離宮からみた浴龍池《よくりゅうち》

離宮と私

コロナ流行の少し前に修学院離宮にでかけました。
比叡山の麓、洛北・修学院の地に広がっています。

17世紀中ごろ、
はじめにお茶屋(別荘)がつくられ
上《かみ》、中《なか》、下《しも》の離宮が造営されました。
明治時代の部分もみかけられます。

事前予約済の参加者がぞろぞろとグループごとに
歩いていきます。
宮内庁の方がガイドでした。

せまい登りをぞろぞろと~

借景の山々や田畑が次から次へとあらわれてきます。
その広々とのどかな田園風景にもおどろかれるでしょう。       
1時間15分程見学にかかりました。

これも離宮の景色・のどかな田畑

日本の歴史学者・熊倉功夫
「小堀遠州茶友録」、「後水尾天皇」に
魅せられての追体験でした。
どちらも中公文庫です。

 

やさしい語り口

朝廷(天皇)と幕府(将軍)

禁中並公家諸法度により
天皇は政治から遠ざけられ
学問、文化、芸事などに専念しています。

利休のわび茶とはちがう
宮廷のお茶などを
たのしまれたりと
寛永文化の中心におられました。

けれどお住まいの京都仙洞御所から
警備上のもんだいなどで
自由な御幸《ごこう》(お出まし)はむずかしく
きゅうくつでありました。
”お天気がよいからこれから出かけよう、、、”は
ありえませんでした。

洛北などへ御幸がしやすくなったのは
上皇や、56歳で法皇となられた
前あたりからです。

天皇からの信頼あつい
幕府の大老・酒井忠勝、
京都所司代・板倉重宗、が尽力されています。

なんといっても朝幕間の心強い調整役は
幕府から天皇の女御(奥方)になられた
和子《まさこ》でした。

徳川家康の孫(徳川二代将軍・秀忠の5女)で
後の東福門院《とうふくもんいん》であります。
                
                  つづく


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