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【麺随想】いちいち考えの足りないラーメン屋(前編)

はじめに


 コロナ渦はじまって間もない2020年初夏のことである。

 僕はその日、特に食べたいものを決められないまま昼休みを迎えたのだが、ひとまず昼食をとるために職場を出た。

 町を自転車で流していても、行くべき店が見つからない。ラーメン、うどん、そば、パスタ……。候補の店は思いつくが、どうも決め手に欠ける。そういう日は、たまにあるものだ。

 貴重な昼休みの時間をあてもなく消費していく中で、僕はなんとなく、普段ならば通らない、私鉄の線路沿いの道へと自転車を進めた。

 その道に差し掛かってすぐ、あっ、と思った。古びたマンションの1階テナント部、居酒屋や美容室に並んで、ラーメン店が新規オープンしていたのである。

 何という偶然。突如として今日の昼食が決まった。麺好きの嗅覚……と胸を張りたいところだが、本当にたまたま、ただぼんやりと自転車で走っていたら店の前にたどり着いただけのことだった。

 僕は、実に嬉しくなった。もちろん、あてのない昼食放浪に終止符が打たれたことに対する喜びもある。だがそれよりも、得体の知れない病気が広まりつつあり、暗く不気味なニュースばかりがメディアを賑わせる世間にあって、新しく商売を始めるというチャレンジに打って出た経営者の勇気に、僕は胸を打たれた。僕の心に希望を吹き込んでくれた気がした。

 今日は、こちらの店主に最大の敬意を持って、麺を味わおうではないか。僕は何だか感極まったような心持ちで、タッチ式自動ドアの縦長ボタンを押して店に足を踏み入れたのである。



1.券売機と、店主の返事のこと


 「いらっしゃいませ!」

 威勢のいい声が出迎える。黒いTシャツに、白いタオルバンダナという、実にラーメン屋らしい恰好をした男がカウンターの奥に立っている。透明タイプのマウスシールドの奥に白い歯を覗かせ、愛想よく僕を出迎える。従業員は彼一人しか見当たらないので、おそらく彼が店主であろう。

 店内に足を踏み入れ、改めて店内を見渡す。全体的に黒を基調とした、新店らしい清潔な店内であった。入口の前方左側に4人ほど座れるカウンターがしつらえられており、その奥が調理スペースらしく店主が立っている。カウンターの向かいには4人掛けテーブル席が2つ。また、店の正面奥は半個室のような形になっており、そこにもテーブル席があるらしかった。

 昼2時過ぎ。先客なし。僕は、カウンターの一番奥に座ろうと、二、三歩踏み出す。

 「あ、すみません。食券をお願いします。」

 店主が、申し訳なさそうに、しかし強めの語調で言った。マウスシールド奥の白い歯が鋭く光る。振り返るとたしかに券売機があった。玄関入ってすぐ右側、壁と柱の間に据え付けられた台に、小型の券売機が鎮座している。思いがけぬ新店の出現に気が逸っていたからであろうか、全く気がつかなかった。

 千円札を入れ、ひとまず券売機の最も左上に位置している「醤油ラーメン」のボタンを押す。券売機に貼られた画像付きPOPの扱いを見ても、このメニューが基準となるラーメンと思われる。850円。機械の返金口から150円をすくい取った。

 カウンターの右端の席に座り、店主と思しき店員に食券を渡す。5分ほどしてラーメンが出てくる。その相貌を見て、「おっ」と思った。茶色く濁ったスープからは動物系のやや甘い脂の香りが漂ってくる。スープ表面にはきめ細かい泡が立っており、上質な油分を感じさせる。具材で目を引くのは大きなレアチャーシュー。掌ほどの大きなサイズのものが2枚、丼の3分の1ほどを覆っている。チャーシュー増量せずにこのサイズのものを配するとは、なかなか気前が良いではないか。そして、麺。恐らくしっかりした動物系のスープに負けないよう、中太のストレート麺が採用されている。好感の持てるチョイスである。

 第一印象として、良いヴィジュアルである。食欲が掻き立てられる。さっそく、スープを一口。予想通り、動物系の力強いうまみが口腔から鼻腔に広がっていく。鶏豚骨であろうか。バランスの取れた良いスープだ。麺をすする。この力強いスープをしっかりまとわせつつ、麺自身の存在感もしっかりと味合わせている。良い麺を良い塩梅で茹で上げている。

 「うむ」

 僕は小さく唸ると、休むことなく麺を啜り上げ、5分ほどでその一杯を食べ終えた。

 良かった。突出した何かがあるというタイプのラーメンではないが、全体的に穴が無く、高い次元でまとまったラーメンである。満足した。このようなラーメンを出す店が、職場の近くにできたことは、実にありがたいことであった。

 僕は、デスクワーカーである。一か所のオフィスにとどまり勤務を行う労働者である。麺活動家として、この事実はなかなかのハードルとなる。

 昼食に麺類をとろうとしても、昼休み1時間の間に行ける店を探さねばならない。決死の覚悟で自転車を飛ばしたとしても、せいぜい半径1.5km内の店でしか、昼麺を楽しむことができないのである。

 それだけに、職場に近いランチエリアで営業している麺店は、僕にとって宝物と言って過言ではない。今日初めて訪れたこの店も、昼食ローテーションの一角を担う大事な戦力として、僕の脳内ブルペンに迎え入れられたのである。実に幸福な発見を成し遂げた昼下がりだった。


 さて、仕事に戻らなければならぬ。新たな出会いの余韻に浸ってばかりもいられない。僕は、カウンターに置いてあるメニュー表から「醤油ラーメン」の値段が850円であることを確認すると、トートバックから財布を取って立ち上がり、「ごちそうさま」と言いながら、カウンターの中にいる店主へ千円札を差し出した。

 するとである。

 「はいっ!?」

 その店主は、大きな声でそう言ったのである。

 僕は一瞬、店主のその反応の意味がわからなかった。だが、ややあって自分の失策に気づき、しまった、と思った。そうだ、僕はすでに券売機で食券を購入し、その時にラーメン代の支払いを済ませていたのである。

 上記の通り、このコロナ禍にもかかわらず、うまいラーメン屋が、職場の近くに新しくできた、という僥倖に僕もやや興奮していたようである。我を失って食券機のことをすっかり失念してしまったのかもしれない。

 間の抜けた失策にやや赤面しながら、僕は左後方にある券売機の方向をチラリと振り返った。

 ん……?

 僕はやや戸惑った。

 ない。券売機が無いのである。

 たしか、壁と柱の間に置いてあったはず……。

 それで僕は、ようやく確認した。券売機はある。だが、その機体が見えない位置に置かれているのである。

 というか、わざわざ券売機のそばにある柱に布を張って、券売機を見えないように隠しているのであった。

 うーん……。

 よくわからないな、と思った。なんでわざわざ、あんな工夫をしているのだろうか。お金を感じさせるものを見せるのが、いやらしいということだろうか。だが、ラーメンを食べることには券売機であろうが、手渡しであろうが、必ず対価を払うのだから、別に何のいやらしいこともないではないか。

 言いがかりのように聞こえるかもしれないが、あの券売機が目立つ場所にあれば、僕も前払いのことに気がつき、愚かな失敗を起こさなかったかもしれない。券売機を隠すことでむしろ、デメリットが発生してしまっているのではないか。

 そうだ。思い返してみれば、入店直後にも券売機に気づかなかったが、やはりあの券売機を置く位置に問題がある気がする。ドアの直後右側、しかも少し奥まった位置にあり、どうしても視線に入りにくくなる。

 そこで、さらにハッとした。券売機での食券購入を促す時の、店主の強い口調…。もしかしたら、食券機に気づかずカウンターに座ろうとする客が、すでに相当数いたということではあるまいか。いい加減うんざりだ、という心持ちがあの強い口調に出てしまっていたのではないのか。

 だとしたら、やっぱりダメではないか。券売機が見えにくい、あるいはまったく見えない位置にあって、いいことなど何もないではないか。もうちょっと券売機の位置について、よく考えたほうがいいのではないか。

 失策に対する軽い羞恥が、券売機の位置に対する疑念へと移り変わったころ、僕の心にはもう一つの、さらに大きな要素が加わりつつあった。

 店主が発した「はいっ!?」に対しての憤りである。

 僕が千円を出すと、彼は目を丸く見開き、顔を突き出し、すっとんきょうな声を上げて「はいっ!?」と言ってみせたのである。さもびっくりしたと言わんばかりである。

 たまたまではあるが、その店主はいわゆる「受け口」の人であった。クリアタイプのマウスシールド奥に見える彼の下あごは、上唇よりもやや突き出ている。

 想像してみてほしい。少し下あごの出た人が、目を見開き顔を突き出し、「はいっ!?」である。これで右手の甲を上に向けて胸の前に持ってきたら、故・志村けん氏の名ギャグ「アイーン」にそっくりではないか。僕のうっかりミスを「アイーン」ばりの「はいっ!?」で迎え撃たれたのである。

 なんやねん、コイツ――。

 実に癪にさわる。人を小馬鹿にした、ともとれる態度である。

 知人の間では「温厚が服を着て歩いている」とも評されるほどの温厚さを持ち合わせた僕だが、この人を食ったような所作には、思いがけず憤りを感じた。

 だが、待て。冷静に考えれば、店主が悪意を持ってそのような態度をとるわけはないのである。新店オープン間もない顧客定着のための大切な時期に、客を愚弄するような態度を店主がとることなどあろうはずもない。店主の、ナチュラルな反応として、このアイーン風「はいっ!?」が飛び出したものだと考えるのが自然であろう。

 しかし、自然な反応として、このような人の感情を逆なでする言動をとってしまうのであれば、それはそれで、この店主の人格に問題があるような気もした。

 あるいは、やっぱりあれだろうか。入店直後だけでなく、支払い時の勘違いも続出しているのだろうか。そのことに対するうんざり感が、問いかけ式アイーンの形になって漏れ出てしまったのだろうか。


 「あの…最初にもらってますんで」

 店主はやや受け口になった下あごを横に曲げ、苦笑いを浮かべながら、僕にそう言った。

 渦巻く憤怒は完全に収まったわけではなかったが、努めて冷静にふるまおうとした僕は、

 「あ…そうでしたね」

 と、気まずい愛想笑いを浮かべながら、自動ドアのボタンを押し、早足で店外へと出た。

 職場へ帰る途中、この短時間で味わった様々な感情を反芻する。

 ラーメンは、旨かった。新店のできたことも実に喜ばしいことだ。だが、こんなにも後味悪く、ラーメン店を後にすることが、これまでにあっただろうか――。

 自転車上でやや湿り気を含んだ風に吹かれながら、とりあえずあの店には、しばらく行きたくないな、と思った。



2.エアコンのこと


 僕が例の店を初めて訪ねてから数か月がたった。ようやく日中でも涼やかな風を感じられる季節となった。

 初訪店からそのころまでに、僕は3~4度ほど店を訪れ、ラーメンを食べていた。

 読者の中には、前項のような腹立たしい出来事があった店なら絶対に行かないな、と思われる方もいるかもしれないが、僕はあまりそういうことを気にしない。

 もちろんそれは、「温厚の最も身近な具体例」と友人から評されるほどの、僕の温厚さのゆえでもあるが、特に麺の店であれば、僕の意識はほぼ麺のみにしか向かない。店の設えや、店員の態度といったようなものは、訪店選択の基準とはならない。だから先般の体験も、この店から足が遠のく理由とまではならなかった。

 ということで、僕はその日、やはりいつもと同じくランチピークタイムを過ぎた14時ごろに店を訪れた。自動ドアが開く。今日も先客はいない。おそらく5度目ぐらいの来店になるが、僕はその店でほかの客に遭遇したことはなかった。

 カウンター奥にいた店主……例のアイーン店主と目が合う。心なしか、軽い驚きを含んだような表情に見える。透明マウスシールドの奥に覗く店主の口から「あっ」と声が漏れたようにも見えた。昼下がりの来客が、やや思いがけないものだったのだろうか。だが、すぐに表情を作り変えると「いらっしゃいませ!」と元気な声で僕を出迎えた。

 店に入ると、すぐ右にある券売機で「塩ラーメン」の食券を購入する。開店当初と同じくやや奥まった、見えにくい位置に据え付けられており、動かされていない。だが、初訪時の出来事のインパクトが強かったおかげで、その後は食券を買い忘れるという失策は起こしていない。

 前回までの訪店時と同じく、カウンターに座ろうとする。すると、店主が「こちらにどうぞ!」と奥のテーブル席に着席を促した。

 僕は特段不思議にも思わず、その4人掛けテーブルの奥側に腰かけた。店主に食券を渡す。「はい、塩ラーメン一丁!」と元気な声がかかる。店主はカウンター奥に戻ると、ラーメンを作り始めた。

 5分もせず、「お待たせしました!」と、ラーメンがテーブルへと着丼する。早速食べ始める。やはり、うまい。派手さはないが、しっかりと旨味の出たスープが、いつもながら好印象である。

 と、僕がスープを3口すすり、麺を5筋ほど持ち上げた、その時であった。店の自動ドアが開き、人影が現れたのであった。

 「あっ」と僕は音にならない程の呟きを漏らした。この店で、初めて見る、僕以外の客である。やっぱり僕のほかにも客は来ているんだな。まあ、ラーメンはなかなかいい味しているからな。僕はなんだか安心してしまった。

 入ってきたのは、40代ぐらいと思しき色黒の作業服を着た男だったが、彼は自動ドアのすぐ右にある券売機に気づかず、そのまま入店してきた。

 やっぱり券売機、気づきにくいよなと思っていると、その男が店主に声をかける。

 「お世話になりますー。ヤマモトですー。」

 「あっ、お世話になります。ありがとうございます。」

 「もう始めていいですか?」

 「ええ、おねがいします」

 作業着を着た男が店を出る。なんだろう。客ではないのだろうか。再び店内に戻ってきた男は、1メートルほどの脚立を右肩に背負っていた。

 「じゃ、始めさせてもらいますー」

 彼は店主に声をかけると、店舗の中央で脚立を手際よく広げ、軽やかにステップを上っていく。そして、天井に埋め込まれたスクエア型のエアコンのカバーに手をかけると、それを思い切りよく取り外し、中をつぶさに点検し始めた。

 そう、彼はエアコン修繕にやってきた、業者だったのである。

 おいおいおい――。僕は驚き、あきれた。

 なんで、飲食店が店を開けている間に店内の修繕を始めちゃうんだよ。店内にほこりも舞っちゃうし、実に不衛生じゃないか。わざわざ店の奥のテーブルに通された理由も明らかになったわけだが、そんなことぐらいでカバーできるものでもあるまい。あまりにも配慮に欠けた店舗運営上のミスだと言わざるを得ない。

 修繕を行うのであれば、閉店後か中休みの時間にすべきだろう。どうしても時間の都合がつかず、営業時間内にしか業者を呼べないのであれば、せめて修繕の時間帯だけでも店を閉めるべきではないか。せっかく店に来ていただいたお客様を、臨時の閉店でガッカリさせたくない……。いや、エアコン修繕している下でラーメンを食わせるほうが、よっぽど失礼だろう。

 待て。ていうか今、10月やで? そんな急いでエアコン直さんといかんか? むしろ今からしばらく使わんのと違うか? わざわざ営業時間内に直す必要ある?

 目の前の光景に対する僕の驚愕は、なかなかに大きいものだったらしく、混乱とともに次々と疑問が湧き上がってきた。

 そして、僕はその混乱とともに次々と麺をすすりこんだ。憤慨、狼狽、屈辱、疑念、そんな気持ちがまぜこぜになった、しかしそのどれとも違ったようなあわただしい感情が渦巻くなか、昼食を終えた。

 僕は席から立ち上がると、身を縮め業者の乗る脚立の脇を抜け、店の出口付近に立つ店主のもとへと急いだ。そして財布から1,000円を取り店主に差し出した。店主の顔が崩れ、眉が八の字になったのを見たところで、僕は、しまった、と思った。やや突き出た下唇が開き、ライトなアイーン風の表情になった店主が申し訳なさそうに言葉を漏らす。

 「あの…お代は、もう…」

 そうだよね。もう払ってるよね。食券制だったもんね。前も間違えたよね。わかってるよ。でも、それもさ、券売機の位置がね。まあ、言ってないからさ。仕方ないけどさ。

 「あ…そうか」

 ひとり混乱の渦中にいた僕は、なんとか言葉をしぼりだした。そして、逃げ出るように自動ドアから戸外に出ると、店の前に止めてあった自転車にまたがった。

 車上でも、僕の憤慨と混乱は収まらなかった。だが、しばらくの間秋の爽やかな風に吹かれていると、上気していた僕の頭が急速に冷やされていくのを感じた。その心地よい風は、僕の体温と同時に、僕の感情をも急速冷却してくれたようである。混乱と憤慨の後に残ったのは、ある種の諦念だった。

 あの店主は、ああいう人なのである。

 ラーメンはなかなかに美味いものを作るが、細かいことに対する配慮や考えが、圧倒的に足りない人なのだ。想像力の欠如、というやつであろう。

 ふつう、そういう細かい配慮のできない人が、ラーメンに限らず何かをつくり上げれば、いろいろと問題が出そうなものであるが、あの店主はラーメンに限れば上手くつくっている。そういう観点から言えば、珍しい人なのかもしれない。

 考えが巡るにつれて、諦めが納得へと変化していった。

 そういう人がつくっているんだもの。あとはこちらが理解して、ラーメンにフォーカスを当てられるかどうかだ。僕にとっては、とにかく貴重な職場近くのラーメン店である。僕がそれを大事にするかどうか、これが肝心である。

 つまるところ、僕の問題だ。こう考えれば、何かとクリアになってくる。

 勝手に驚いて、勝手に混乱して、勝手に納得した僕が、自転車で職場に帰る。あの店とは、今後もつかず離れずの、長い付き合いになるだろう。ただ、僕とラーメンだけがあればよいのだ。耳元を吹き抜ける風は、僕の心持と同様、いよいよ爽やかであった。


 だが、まだまだであった。

 僕の理解は、実に甘いものであった。

 件のアイーン店主は、僕の爽やかな諒解をあざ笑うかのように、その後もいくつかの不可解な言動を僕に見せつけるのであった。

 引き続き、そのことについて書こうと思ったが、この時点ですでに普段の倍ほどの量を書いていることに気づいた。

 残りの項は、後編で書こうと思う。

 お付き合いいただければ、幸いである。


ラボレムス - さあ、仕事を続けよう。

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