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将来の普通な夢。

今夜なんだけど、マリオ・バロテッリが「why always me」のインナーを世界へ解き放った時にTシャツを首の後ろにまくっているような感じで僕の小太りした腹はコンピューターと対面している。でもこれがなんか落ち着く。

今日は都会の整備された河でちびっ子たちと水遊びしていた。水面に反射した午後三時の太陽の光がまぶしかった。あとカマキリが首元まで登ってきたときは圧倒的無力さを感じた。


夏以前まで普通を毛嫌いしていた。普通とか凡庸とかあんまりいいもんじゃない。周りに溶け込んでしまうことが怖くて、手が届く範囲で尖っているように頑張っていた気がする。

なんでも逆張りしてみたりそれを正当化するために全力で論を作り上げたり(失敗作多)。ユニークなアイデアを作ろうと誰も考えたことのない事を考えようと努力をしたり。まあ実際こんな方面で頑張ったことで得たことも大きいのだけど、でも、今はこの必要を感じない。

でも別に普通でもいいんじゃないって最近思っている。周りから見ればどうなのかわかんないんだけど(今も昔も頭おかしいとか言われる)自分を見る限りでは別になんも変哲もない普通の奴だ。無理に自分以上である存在であろうとしていてもなく、自分以下でもない。そんな感じ。ほかの人が僕を形容する言葉がないと言っていた時は正直若干うれしかった。

最近とか結構将来の夢とか聞かれるんだけど、あまり明確なゴールはない。達成するべきゴールを設定して変に執着してしまうと自分ではない存在になってしまうんじゃないかな、と怖がっている。僕は将来の夢を生の前提としている。今の将来の夢は愛することを思う存分やり、学びたいことをたくさん学び、嫌いなことも好きになって、喜びと悲しみを深く感じ、こんな甘い考えと無垢な自信に満ち溢れている人間でありたい、ということかな。今現在もこれからもこの姿であれば自然にどこかに行きついているはず。

こんなこと考えていると過激派だったり迷える子羊だったり変な目でみられるんだけど、自分はこんなふんわりした感じがあっているしいい気がする。目標とか決めたらどうせ期限少し前に全力加速して終わらせるだけだし、執着して本質を見失ったら悲しいし、虚像を追っかけ始めたら元も子もない。だったら抵抗せずに身を流れに任せてしまった方が楽だし、信頼できる。

今も未来も本質的に変わらない姿でありたいというのが一応の将来への願いかな。自分という普通の姿で凡庸に流れるように生きていく。それがたぶん僕の将来の夢の最適な限界。


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