偶然性は絶望であり希望
先日、あるゼミ生が社会貢献をしなければならない理由を説いていました。その子は、「自分が衣食住に困らず暮らし、勉強できているのは偶然に過ぎない。だからこそ、同じく偶然にも自分とは違い恵まれない人に尽くさなければならない」ということを熱意を持って、本心から語ってくれました。
本当にその通りだと思います。
これと似たことを社会学者の上野千鶴子さんが東京大学入学式の祝辞で話しています。
...がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。(中略)
あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。...
大学2年の夏に出会って、自分の信条としている言葉です。
私が特に注目したいのは、ゼミ生が語ってくれた「偶然性」の部分です。
前期ウィトゲンシュタインは、論理的なことは全てあり得るという立場を取っています。例えば、
花子は道で50万円を拾った。
現実的ではないかもしれませんが、文章としての論理は成り立っているので、この事象は「論理空間」の中にあります。そして、論理空間にある以上、その不可能性を証明することはできません。
では、論理的ではないこととは何か。それは、文章になっていないもの。そして、「語りえないもの」が含まれているものです。例えば、
愛は世界を救う。
何かの標語で聞いたことがありそうで、魅力的な文章ですが、「愛」とは何かを説明できるでしょうか。母が私に抱いてくれるもの、恋人同士の間にあるもの。例はいくらでも浮かびますが、それその物が何かは明晰に説明することができない、語りえないものです。
つまり、明晰に語ることができる事象は、起こる可能性が必ずあることだと言うことです。
これは、自分が恵まれていると感じている時の戒めになるだけでなく、恵まれていないと感じている時の希望にもなる考え方だと思います。
私は現在、理想の自分の生き方を目指して、日々を生きていますが、その志が叶うことなく、来週死ぬかもしれません。
一方で、私は自分の性に関して悩んだ過去があり、今も解決はしていません。しかし、何らかのきっかけで、今よりずっと生きやすいと感じる心構えを得たり、環境に恵まれるかもしれません。
つまり、未来の可能性は常に開かれており、悲観的にも楽観的にも考えられます。
偶然性を心に留めて生きることは、考えられる限り最悪な未来であっても、考えられる限り最高な未来であっても、動じずに受け入れることです。
明晰に語り得る事象に不可能はない。自分の欲望が明晰に語り得る事象であるならば、その可能性の高い/低いなどを考えるのではなく、ただ進むだけだと思います。
※反対に、幸せになりたい!愛されたい!といった漠然としたものは、明晰に語り得ないため、それが叶うことはありません。そもそも叶ったかどうかを証明することもできないですからね。
なんだか予備校の先生が言いそうな、身も蓋もない結論になりましたが(笑)
最近の自分の学びということで、このまま投稿しようと思います(笑)
○hum@fukuoka さん、素敵なイラストを使わせていただきます。ありがとうございます。
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