承認欲求という危うさ
僕が今から語るのは「〜とは何か」や「〜と〜の違い」などの言葉の定義付けについて。
「言葉を定義付けする」という作業をする理由には何があるかを考えた。
もちろん、学びを深めるためという理由もあると思うが、その裏側には
知識の所有というか、分野ごとの正解を所有したい。そして、その所有している正解を周りに話すことで"成長した自分を認められたい"というところからきているのではないか。
僕は承認されることを目的として言葉を定義することに危うさを感じる。
何故なら、承認ベースのインプット、アウトプットというのは結局のところ、雑な暗記になってしまうし、どうしても浅くなる。学びとしてもかなり効率が悪い。思考停止とまでは行かないものの自分で考える力は養われない。衰退に向かう停滞でしかない。
この記事は、学びから承認に目的がすり替わっているな、と思う人に届けばいいなと思う。
過去に正解主義と修正主義。正解と納得解というキーワードが僕が所属しているコミュニティ内で話題になった。
正解として見ているんじゃなくて納得解として見てるんだよ!という人は人の意見に対しての納得が浅いのではないか、というところまで考えて見た方がいいと思う。
自分の言葉で人に説明できるか、という確認作業をしてみるといい。
なぜ僕がこの話題について考えたか、これは僕自身が以前やっていたことだからだ。
では、ここからは考えるということについて話していきたい。
人生を豊かにする上で考えるという営みは避けて通れないものだと思う。
でも、正解っぽいものは誰もが発信できる時代だし、ツイッターを開けば腐るほど転がっているし、自分の意見に自信はないから他人が見つけた正解に縋って手軽に安心したいし。
自分で考えるということほど面倒な作業はないなと思う。
たとえば、「仮説検証」という言葉がある。簡単に言うなら、疑問→仮説→検証→実証を繰り返すことで学びが深まるという思考プロセスのことだと僕は思っている。
「仮説検証」というワードは知っている。けど仮説検証をしたら"なんか知らないけど良くなるんだろうな"で止まってる人がいるのではないかなと思う。つまり、知識止まりで知恵にまで昇華できていないと言うことだ。
それも無自覚に。
これはどういうことかと言うと、人は自分が思っている以上に自分を過大評価しやすいのではないか、ということだ。特に自信が付き始めた頃は。
なので常に自分から見た自分と実態は乖離していると考えた方がいい。
では、そこからどうすればいいのか。
人に聞こう。
「僕の長所と短所って何だと思う?」「〜からみて僕ってどう写ってる?」「僕って何を大切にしてそう?」
まあ、なんでもいいと思う。自分を知ることが考えることの出発点だ。
「なぜ?」を問うことが重要だ、ということは割と出回っている情報だし一度は聞いたことあるんじゃないかなと思うが、本当にこれを実践している人はどのくらいいるんだろうか。
「なぜだろう」→「なぜなんだろうな」で停止している人は案外いるんじゃないかと思う。
できているようで、できていない。
➀想像と実態が乖離していることを意識する→②人に聞くことことで実態に近い自分を知る→③自己理解が深まる→④努力の方向性が定まる→⑤仮説検証→➅自分軸ができる
この繰り返しが大切だと思う。
②に当てはまる"人に聞くこと"以外にも自己理解を深める方法はある。
・色々な人を見る
・色々なことを経験する
・周りの出来事を自分ごとに捉える
・色々なコミュニティに所属してみる
・自分が信頼している人の言葉を素直に受け取る
・その他
こんなところだろう。
参考にしていただければありがたいです。
ここまで長文に付き合ってくれてありがとう。それでは。
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