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【エッセイ】私と「渋谷」

田舎者の私にとって、「渋谷」という街は憧れだった。

テレビっ子だった私は、画面に映るスクランブル交差点を指差して「ママ、私、ここ行ってみたい!」なんて、よく言っていた。
あんなにたくさんの人が一斉に交差点を歩いていることも、彼らが斜めに道路を横断していくことも、私の住む街ではあり得ない光景だったから。
ニュースの天気予報の前に映るたった数秒の、でもものすごく存在感のある景色は、私をすっかり虜にした。


中学生までは、この小さな街が私の世界の全てだった。
遊び場所はたいてい近所の公園か海。お小遣いを握りしめて、友達とデザートひとつとドリンクバーだけ頼んで、17時を知らせる鐘が鳴るまでファミレスで延々と喋り続けるのも好きだった。今考えると、お店側からしたら迷惑な客だっただろうな、ごめんなさい。


私が初めて渋谷に降り立ったのは、高校2年生の秋。友達に「原宿に遊びに行こう」と誘われたのがきっかけだった。

とはいえ、私たちにとって東京は遠い世界。
憧れの竹下通りでは、気になったお店にふらっと立ち寄ってみようとはしたものの、キラッキラの店内に入るにはどうしても勇気が必要で。
結局私たちは、あんなにお店がたくさんあって楽しいはずの竹下通りを、ものの10分で通り抜けてしまった。

これじゃあ、遊びにきたなんて言えない。ただの通行。通っただけ。せめてなにか観光っぽいことをしなければ。
そんな謎の強迫観念に駆られた私たちは、渋谷に行くことにした。

すぐそばにあったスタバで抹茶フラペチーノを買って、スマホの画面に地図を表示する。
ちょっと調べると、原宿から渋谷まではだいたい1kmであることがすぐに分かった。山手線なら隣駅だからたったの2分だし、歩いたとしてもほんの15分。
せっかくだし、歩くことにした。ほら、ぶらぶら歩くって観光っぽいし。
隣の駅は4km先、徒歩だと1時間はかかる地元を思い浮かべて、「都会は狭いなぁ」なんて言い合いながら、2人でだらだらと歩みを進めた。

しばらくすると目の前に見えたのが、あのスクランブル交差点。

「井の中の蛙、大海を知る」なんていうと少し大げさかもしれないが、テレビでしか見たことのなかった世界を初めて自分の目で見て、その迫力に圧倒された。
ぶつからないように歩く大量の人間たちに交じって、ふと空を見上げると、まるでここだけ穴が空いているように思えてきて。
自分が空から落っこちてきたみたいな感覚は、私を興奮させるのには十分だった。
地元からはせいぜい電車で1時間半ほどの距離だけど、ものすごく遠くから来た観光客みたいに、私たちは何度も何度もスクランブル交差点を渡った。


ふと顔を上げると、かつて箱の中にあった世界がガラス越しに映っている。テーブルの上に置きっぱなしになっていた飲みかけの抹茶フラペチーノを口に含み、私は斜めに行き交う人たちを見下ろす。

渋谷の近くにある大学への通学が始まっておよそ1年。もうこの景色にはすっかり慣れた。
水曜日の夕方にはスクランブル交差点を渡って、この場所でパソコンを開いて課題をすることも、習慣になりつつある。

スクランブル交差点にあんなにも興奮していたあの頃の私はもういない。私はすっかり大量の人間たちに紛れるようになってしまった。

スクランブル交差点を渡りながら、なんとなく空を見上げる。

今ここにあるのは、もう何も思うことのない自分への哀しさだけ。


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