見出し画像

【エッセイ】カテゴライズされるのなんて大っ嫌いだったはずなのに。

※このエッセイは2021年に別サイトで別名義で掲載していたものです。サイトが閉鎖してしまったため、こちらに加筆修正して掲載し直すことにしました。

日常生活の中で、私たちは無意識に、また、ときには意識的に、自分や他人をカテゴライズしている。

私は、カテゴライズされるのが嫌いだ。

性格のカテゴライズ


男女や年齢でカテゴライズされるのももちろん気に食わないが、性格でカテゴライズされるのも好きではない。

だけど、周りの人は、「しっかりしていると言えば原石だよね」なんていう。

お気づきだろうか。「原石はしっかりしているよね」と、「しっかりしているといえば原石だよね」の違いに。
前者はいいのだ。「原石」、つまり「私」という人間の中に「しっかりしている」という要素が入っているから。
問題は、後者。勘のいい皆さんならお気づきだろう。この言葉では、「しっかりしている」という性格のカテゴライズに「私」が存在しているのだ。

私は褒められたくて意図的に「しっかりしている私」を作っている。「しっかりしている人間」に分類されるためにしっかりしているんじゃない。

私を構って。


ところが、一度「しっかりしている」と分類されると、別のカテゴリーに移動してもらうにはよほどのことがないと難しい。

小さい頃は、「しっかりしている」ことで褒められていたが、大きくなるにしたがって、「しっかりしている」と判断されると、「一人でも平気そう」とか、「放っておいても大丈夫」とか思われて、大人から構われなくなった。

いや、「構われなくなった」という言い方には少し語弊があるかもしれない。単に、大人の目が「しっかりしている」とカテゴライズされた私ではなく、他の「しっかりしていない」とカテゴライズされた子たちに向いただけだ。

それでも、私は構ってもらいたかった。「しっかりしていない」とカテゴライズされた子と同じように、大人にサポートしてもらいたかった。声をかけてもらいたかった。いつも構ってもらえて、良くも悪くも注目される「しっかりしていない」子が羨ましかった。

カテゴライズすることで、自分を守っていた。


大学生になって、私は塾講師を始めた。高校受験のための集団塾で、私は生徒たちに国語を教えている。

初めはどの子にも平等に接しようと心掛けていた。もちろん、それは今でも変わっていない。

ただ、どうしても目に付くのだ。
「しっかりしていない」子が。

宿題はやってこない、事前に出題内容も答えもわかっているはずの確認テストで合格点を取れない、重要な提出物をいつまで経っても提出しない。
そういう行動をされると困るのだ。

私、つまり大人が。

「しっかりしていない」子は無意識に構ってしまう、というか、構わないとこちらが後々大変な目に遭ってしまう。

性格のカテゴライズは、大人の自己防衛のためだった。

それに気づいたとき、自分が構われなかったことにも納得がいった。そりゃそうだ、「しっかりしている」に分類されている私は、危険分子だと認識されていなかったのだから。より危険なものがあったらそれに目を向けるのは当然のことで。

期日がだいぶ先でも「提出物は早く持ってきなさい」と声をかけたくなるのは「しっかりしていない」方の子。
逆に、宿題をきちんとやってくるとか、提出物は期日までに持ってくるとか、普段からそういうことができている「しっかりしている」子への声かけはギリギリでも大丈夫。

私もそんなふうに考えてしまっていた。
「しっかりしている」子を「しっかりしていない」子に比べて構っていなかった。
私は、自分で過去の自分を傷つけていた。

今は、「しっかりしている」子を、意識的にちゃんと気にかけている。
何気ないことでも話をして、彼らの声を聞いて。「しっかりしていない」子と同じように扱うのとは違うけど、私なりの小さな気遣い。
幼かった私のような思いをする子を、ちょっとでも減らしたい。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?