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「科学技術コミュニケーション」をめぐる原理的問題についての試論

(2023年6月)

現在「科学技術コミュニケーションの範疇に入る」と言われている対象をすべて包含しようとするならば、この言葉の定義は「科学技術に関する何らかのコミュニケーション活動」とするしかない。つまりこれは研究でもなく何らかの具体的な目的を達成するための社会運動でもなく、「気圧配置」や「人口分布」のような単なる「現象」にすぎないということである。

だとすると、ここからさらに「良い科学技術コミュニケーション」といった価値的な判断をしようとするのであれば、別途何らかの理想状態、目的、目標を導入しなければならないということになる。そうすると即座に、誰の、どのような観点からの理想状態なのかということが問題となる。
また、なぜとりわけそれを一つのまとまりとして切り出すのか、そのことにどのような認識利得があるのか、という問いに一定の答えを与えなければならないということになる。

そういった意味では、「科学技術コミュニケーション=双方向=良きこと」といった前提を説明無しに、あるいは少数のエピソードのみを根拠に持ち出すこと、「科学は専門家に任せておくには重大過ぎる」といった言葉の引用のような印象レベルのものをドメイン切り出しの根拠に使うこと、概念の典型例としてもっぱら「サイエンス・カフェ」「コンセンサス会議」のような限られた活動事例を挙げること、などは、いずれも「科学技術に関する何らかのコミュニケーション活動」というあまりにも巨大で抽象的な風呂敷を扱う枠組みとしては脆弱すぎたと言えるのではないだろうか。

全く不十分なのは承知の上だが、私は以前(といってもすでに十数年前になるが)この問題意識に対する暫定的な回答として、科学技術コミュニケーションを、以下の3つを目的とするコミュニケーション実践、と定義した。

  1. 当事者間の相互理解と協働
    科学技術に関して異なる文脈を持つ当事者同士がその違いを理解しつつ、共通文脈を発見して協働すること

  2. 集合的意思決定機能の向上
    科学技術に関する、社会システムの「集合的意思決定機能」を向上させること

  3. 正当性と正統性の実現
    科学技術によって社会にもたらされる価値を最大化し、社会システムに対する信頼を向上させること

これでもまだ巨大で抽象的に過ぎるが、それでも最低限、このような参照枠を導入することで、当該の活動が良い科学技術コミュニケーションなのかどうかという価値的な議論に接続しうると考えたからである。
もちろん、ここでの価値的な議論は、個別の活動だけではなく全体の構成、バランスに対してもなされることを念頭に置いている。むしろ個別の活動に関しては単体で良し悪しを判断することができるのはよほど極端な例に限られる。

しかし一方で、全体の構成、バランスに関しては、誰がそれをモニタリングし、判定しうるのか、という能力と正統性の問題が浮上する。
いずれにしても、こんな曖昧で複雑な代物は実践としての科学技術コミュニケーションを一般に展開する用途には到底耐えない。

※下記は私が以前(同じく十数年前になるが)科学技術コミュニケーションのイントロの授業で毎年使っていたスライドの一部。

授業スライド(抜粋)

ここにも書いたように、はっきり言って「呉越同舟」なのである。それがなぜか突然巨大な枠組みでグルーピングされ、結局現在に至るまでそのグルーピングを支えるに足る十分な理論的基盤が提供されることはなかった、ということだと思う。私自身、それまで科学館等で別の文脈で活動してきて勝手にグルーピングされた立場からすれば寝耳に水で大いに違和感があったし、逆にその後当事者となった立場としてはあまりにも力不足であった。特に当時の受講生に対しては本当に申し訳ない。

前述の科学位技術コミュニケーションの目的は「実用には耐えない」と書きはしたが、それでもそれを参照するならば、例えば特定の実践を、「2.集合的意思決定機能の向上:科学技術に関する、社会システムの「集合的意思決定機能」を向上させること」に寄与しているかどうかという観点で評価し、それを採用したり改善したり退けたりするための最低限の見通しが立つことになる。

目的が定まらなければ評価ができない。評価ができなければ質は改善されず、そもそもなんらかの実践の意義を第三者に説明することすら出来ない。リソースの提供を要望することも出来ない。仮に何らかの具体的な目的をローカル/一時的に設定したとしても、そもそもの概念の包括性が必然的に招く「全く相反する具体的な目的」の観点からそれは批判され、社会的価値は曖昧で論争的なものとなる。

そうなると実践そのもの、そしてその担い手である科学技術コミュニケーターの持続可能性がいつまでたっても高まらない。そういった必然性を背景に、私は科学技術コミュニケーション実践の評価に注力することとし、2010年に公の場で初めてその構想を発表し、その後8年近くを費やしてそれをテーマにした博論を執筆した。

科学技術コミュニケーションの評価手法整備のための包括的枠組みの構築
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/71523

しかしここまでの説明で明らかなように、これはそもそもあまりにも巨大なプロジェクトであった。到底現実的な期間内で個人の手に負えるようなものものではなく、論文の内容も極めて不十分、不本意なものとなってしまった。書籍化を勧められたこともあったが、出版しうる水準には全く到達していなかった。

それには科学技術コミュニケーションの問題だけではなく、そもそも一般的な評価理論自体極めて曖昧で未成熟な学問分野であったことも起因している。そもそもの「評価」の定義さえ、何らかの概念操作に耐えうるほどの精度を全く有していなかった。

仕方がないので私は独自に、その定義を

何らかの活動や事物、状態の情報を、その対象に影響を与える意思決定において意思決定主体が利用可能な情報に変換する行為

『科学技術コミュニケーションの評価手法整備のための包括的枠組みの構築』

とすることとした。

余談だがこの「状態空間から意思決定空間への座標変換」という観点はそれまでの評価理論には存在しなかったものであり、今でも極めて有効なものだと考えている。

他方、一般に「評価」やそれに類する概念をアカデミックな分野に導入することは、それ自体強い拒否感を招きがちである。そのこともこのプロジェクトを推進していく上での少なからぬ障害となった。この拒否感の源泉と、日本における科学技術コミュニケーション概念の導入の間には、一筋縄ではいかない関係がある。

また先程「その担い手である科学技術コミュニケーターの持続可能性」と書いたが、実はこれは非常に大きな問題である。もちろん第一義的には当事者の生活保障という意味だが、それに加えて、ある程度の持続可能性がないプレイヤーは何らかの原理原則に則って自律的に振る舞うことが出来ないからである。

より具体的な話をすると、科学技術コミュニケーターが何らかの倫理規範を貫徹するためには、利害関係者による私的な都合でのリソースの提供/引き上げにその持続可能性が一定程度以上脅かされるようなことがあってはならないとうことである。

しかるに、そもそもスタートからして「呉越同舟」であったがために最善の場合であっても極めて抽象的な目的しか設定できず、それゆえに評価システムが未整備なまま放置されてしまったため、実際には非常にアドホックな、ローカルな利害関係者からのリソース提供に個々の科学技術コミュニケーターが依存せざるを得ない構造が温存されてしまい、上記のような自律性を実現することは極めて困難な状況が未だに続いている。

そうであるにも関わらず、「良心的な」科学技術コミュケーターであればあるほど科学技術コミュニケーション概念が包含するとされるあらゆる活動のあらゆる価値規範に対して目配りする責務を担おうとするため、結果として外部から見て納得性の高いコミュニケーションをアクティブに行なうことが困難になってしまっている。

もちろん、こういった状況にこれまで全く注意が払われてこなかったわけではない。いくつかの研究者や研究グループ、ファンディングエージェンシーなどがそれぞれ、科学技術コミュニケーションの「多様性」を描出することを試みてきた。ネット上を検索すればそのような趣旨で描かれた「俯瞰図」がいくつか見つかることであろう。

しかしこれらはもっぱら「多様であること」を確認したに留まり、個別の活動領域を列挙したに過ぎなかった。個々の要素を抽象化し、要素間の関係を具体的に分析して構造を明らかにし、そこから浮かび上がってくる問題を解決するための具体的な研究や実践や政策のあり方を示唆するような概念装置にはなり得なかった。

そのため、科学技術コミュニケーションに内在する重大なジレンマ/アポリアが明示的に意識されることなく放置されてしまった。それを一言でいうと、価値観の共約不可能性である。平たく言うと、「みんなちがってみんないい」というわけにはいかないということである。

ある問題が生じた際に必要となる科学技術コミュニケーションを考えてみよう。定義に依ると、「問題解決」とは「現状」と「ゴール(あるべき状態)」のギャップを埋めることである。問題に介入しょうとするものは多様な、共役不可能な価値観を持っている。価値観が異なればゴール(あるべき状態)も異なる。ゴールが異なれば当然問題解決の方法も異なってくる。従ってそのために呼び出される科学技術コミュニケーションの目的も内容も異なってくることになる。

ここで、「科学技術コミュニケーションの目的は多様である」として、特定の問題を前にして、多様な科学技術コミュニケーション実践がそれぞれの担い手の価値観に従っててんでばらばらに繰り広げられる、ということで良いのだろうか?

それぞれの実践がプロセスにおいても結果においても相互に全く干渉しあわないのであればそれでも構わないかもしれないが、実際には殆どの場合そうならない。ある実践が、別の実践の目的達成を阻害するということはままある。そもそも実践の目的が何であれ、現実世界で行われる活動である以上それは一定のリソースを必要とする。ここでリソースが有限だとするならば、他の目的で行われる実践のリソースを奪い、その実践の遂行を妨げてしまうことになる。

「有限のリソース」という考え方は一般に、アカデミズムとは相性が悪い。なぜならば往々にしてアカデミズムでは、無時間性、無空間性、無限のリソースを前提とした思考が好まれるからである。しかし科学技術コミュニケーションはその出自からして現実社会での実効性が焦点となっており、この問題を避けて通るわけにはいかない。

他方、科学技術コミュニケーションの目的の背景には、それぞれの価値観、価値規範がある。我々の誰もが少なくとも、異なる価値要素には異なる重み付けをしている。そのことは通常は意識されないが、このような目的達成のために有限のリソースを動員し合うような局面ではするどく対立することになる。

だとすると誰かが何らかの形でめいめいの価値貫徹の調停をしなければならないことになる。果たしてそんなことが可能なのかということが現実的には大きな問題だが、かりにそれが可能だとしてもそもそも、調停もまた一つの実践であり、リソースを奪う。熟議民主主義は重要な概念だが、そのための実践もまた有限のリソースを前にした「競合」であるという立場からは逃れられない。

このような重大なジレンマ/アポリアはとりも直さず、現場の実践者一人ひとりが背負うことになる。だとすれば少なくとも科学技術コミュニケーションの教育者は、彼ら彼女らを丸腰で現場に送り出してしまってよいわけがない。

科学技術コミュニケーションの目的の多様性は、リソースの有限性を前提として、「異なる目的の両立不可能性」という現場における実践の重大なジレンマ/アポリアを生み出し、実践を機能不全に陥れている。

そのことの責任は、多様性を単に列挙するだけで抽象化・構造化して問題を析出することなく、実践における具体的な対処法や社会における複数の実践の説得的布置のガイドラインを示すことが出来なかった(もちろん私を含む)科学技術コミュニケーションの研究者・教育者にある。

他方、この目的の多様性の背景には、(科学技術コミュニケーションの研究者・教育者・実践者を含む)人々の価値観の共約不可能性がある。

果たしてこのことに対して、我々は一体どこまで真摯に向き合ってきたのだろうか。もちろん、この多様性を解消せよとかトップダウンで制御せよ、などと言っているのではまったくない。しかし我々はいつまで経っても、科学技術コミュニケーションは多様で複雑で難しい、と言ってお茶を濁し続けるばかりでよいのだろうか。そしてもし我々がこの状態からどうしても抜け出すことができないのだとすれば、それには相応の原因があるのではないだろうか。

さて、「科学技術コミュニケーター」が(職業にせよ職能にせよ何らかの形で)社会に存在しうるには、その担い手の生活が保証されるだけの収入、一定程度安定した立場、活動の機会・発言権、一定程度の利用可能なリソース、活動への協力が得られるコミュニティや人的ネットワーク、社会からの信頼、同一カテゴリの集団として内からも外からも認知されうる程度の概念的一貫性と明晰性、などが必要である。

この最後の「概念的一貫性と明晰性」に大いに疑義があることはこれまでに論じた。そのことは社会からの信頼にも影響を及ぼす。それ以外の要因はどうかというと、これらもまた大いに心もとない。

身もふたもない話をすれば、科学技術コミュニケーターは多くの場合特定の組織に雇用されている。また、その活動のために必要なリソース、とりわけ活動機会とコミュニケーションのための情報についても多くの場合、特定の組織に依存する。このことは陰に陽に、そういった組織が実践者の「人事権」を握っているということである。この状態で、どこまで「自律的」な活動ができるだろうか。

会計士、弁護士、医師、ジャーナリストといった職業、あるいは一般のビジネスパーソンに至るまで、もちろん雇用主に言われれば合法な範囲内であっても何をやっても良い訳では無い。その職能集団に共通の倫理規範があるからである。

しかし、倫理規範の存在はそもそも、「何が善きことなのか」という価値規範が共有される範囲に限って可能であるに過ぎない。出自からして価値規範の共約不可能性を抱えるこの分野において共有しうるものは極めて限定的であり、残念ながら現状では「職能集団に共通の倫理規範」として機能する水準たりえない。

また、弁護士や医師であれば国家資格、あるいは「法の支配」「生存権」といった、近代社会においては極めて普遍性の高い価値観が強力な参照枠を提供するが、科学技術コミュニケーションにそれに相当するものがあるわけでもない。また、多くの場合生活を維持するための十分な報酬や雇用の安定性があるわけでもない。そして活動の基盤である情報を得るためには、情報提供者と良好な関係を維持することは絶対条件である。

こうやって一つ一つ見ていくとこの分野はかなり例外的であることがわかる(あるいは、他分野にも本質的には同様の問題が十分起こりうるし一部では明白に起こっている、という見方もできるが)。

誤解を防ぐために言っておくが、当然ながらこれは科学技術コミュニケーターが制約がないため非倫理的な振る舞いをしがちであるということを言っているのでは<全く>ない。むしろコミュニケーターが「倫理的」であろうとすればするほど、前述の共約不可能性を前提とする限り他の(特定の立場の)コミュニケーターやステークホルダーとの間の先鋭的な対立を招き、調停不可能な事態をもたらしかねないということである。

つまるところ、「誰が(広義の)人事権を持っているか」によって類別されたプレーヤー同士の対立が単に表面化しているに過ぎない(つまりそれは「代理戦争」である)、という非本質的な力学が浮かび上がってくる。

まとめると、過剰な範囲拡大と(それに見合った水準で用意されるべきであった)理論の相対的不備が、活動の依存的構造による生存戦略の選択肢不足と相まって、共役不可能な価値観に起因する非本質的な力学の前景化を招いている、というのがこの問題の本質であるというのが私の主張である。

そしてこれは、なにも科学技術コミュニケーション/科学技術コミュニケーターに限った問題ではない。今後必要であると謳われるあらゆる「新領域」「専門家」「職業」に共通する問題である。

付言すれば、この主張に対してなされるであろう様々な反応もまた、(無視や論点ずらし、矮小化、メタ化といったものも含めて)前述の生存戦略に駆動されることが推測される。

(とりあえず了)

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