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黄土高原史話<17>いま、樵夫(きこり)の歌は聞こえない by 谷口義介

 白川静博士に、ある折こうお聞きしたことが。
 「先生の最も愛好される『詩経』中の一篇はどれでしょうか。」
 ちなみに、私の方は豳風(ひんぷう)七月の詩(本シリーズ<15>参照)。
 「調べの美しさに限っていえば、魏風の伐檀あたりではないか。」
 弱年より歌作のたしなみあり、後年まで謡(うたい)を趣味とされたので、詩歌のリズムを重視されるのでしょう。
 「坎々(かんかん)として檀(えのき)を伐ち、これを河の干(ほとり)  に(お)く。
  河水清くして、かつ漣(なみ)だつ。(第一章)
 この歌い出しの部分、薄田泣菫『古鏡賦』の「斧(おの)に倒れし白檀の高き香(か)森に散る如く」を想起せしめる、とも。
 伐檀の詩は木を伐り出しながら領主への不満を歌ったものですが、「檀」とは華北特産のニレ科の落葉喬木。「まゆみ」と和訓するのは間違いのようです。第二・三章に「輻」(車の矢)・「輪」(車輪)を作るとあり、材質はきわめて堅い。
 魏風は魏の国振りの歌。ただし春秋時代の晋が三分されて韓・魏・趙となった戦国期の魏ではなく、それよりはるか前のB.C.660年、晋に滅ぼされた古国の魏の方。その地は山西省の南西隅、黄河の屈曲部の北東側に在り(図参照)。東に連なる中条山脈には、数十年前までヤナギ・ナラ・クリ・エノキ・ニレなど、第二次幼齢林ながら観察できた由。ましてそれより2600年の昔、周囲に森林が豊富だったとすれば、
 「清く澄んだ河水も波立っている」という上掲の一句も納得できようというもの。黄土がむき出しだと、土砂が流れ込んで、河川は黄濁するわけですから。ちなみに『詩経』の時代、まだ黄河の名は見えず、「河」「河水」と呼ばれています。


 古国魏のほか、西周初の武王のとき、この方面に点々と封じられた八国の一つに韓あり。B.C.757年、これも晋によって滅ぼされました。大雅韓奕(かんえき)の詩は、それより数代前の韓侯が朝見の礼を終えて、新婦と共に帰国するのを寿(ことほ)いだもの。詩中の「韓土」は山西の韓原付近、「梁山」とはおそらく呂梁山脈、「北国」とあるのは王都鎬京(今の西安市西郊)から見てほぼ北方に当たるからでしょう。その地には毛皮を取るクマ・トラ・ヒョウ・シカなどがたくさんいると国ほめしていますが、これも森林が豊かに存在していた証拠。
 ただし『詩経』では、土地の豊饒や人の長寿をたたえる場合、ふつう植物を歌い込みます。たとえば、
 「かの旱〔山〕の麓を瞻(み)れば、榛(はしばみ)・(なまえ)済々た り」(大雅旱麓)
 「南山の寿の如く、……松・柏(このてがしわ)の茂るが如く……」(小雅天保)
などと。植物、特に常緑樹の繁茂をいうのは、そこに盛んな生成力と変らぬ永続性を見るからでしょう。
 「めでためでたの若松さまよ、枝も栄えて葉も茂る」
と歌う山形県の花笠音頭も、これと同じ。
(緑の地球95号(2004年1月発行)掲載分)

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