見出し画像

黄土高原史話<48>匈奴の使者は見破った by 谷口義介

  宮城谷昌光氏の『三国志』は単行本でいま第七巻目。劉備が蜀に入って、ようやく魏・呉・蜀鼎立(ていりつ)の形勢ができあがり、いよいよ佳境を迎えます。
 そもそも三国志にはジャンルの異なる二種類あり。一は西晋の寿(じゅ)(233~297)によるレッキとした歴史書『三国志』、他はこれにもとづき明末・羅貫中(らかんちゅう)が小説化した『三国(志)演義』(16世紀)。後者は唐代後半(9世紀)からあった講談・戯曲の流れをうけて、グッと蜀びいきに舵(かじ)を切るが、その翻訳が元禄年間(1688~1704)に出た湖南文山(こなんぶんざん)の『通俗三国志』。それをアレンジしたものが昭和初期の吉川英治『三国志』だから、これらは劉備主役で一貫する。
 これに対し、宮城谷『三国志』は、曹操を主役としたところに新味あり。もともと正史『三国志』は、「並みはずれた人物、時代を超えた英傑」曹操に比べ、劉備は「権謀と才略にかけては、魏の武帝(曹操)には及ばなかった」と評しているから、三国志を代表するのは劉備でなく曹操だったわけですが。
 ところで、善玉劉備・悪役曹操イメージを定着させた『三国演義』では、劉備は身長184センチと容貌すぐれた正義の人。曹操は161センチで、ずる賢い小男。ちなみに京劇の曹操は、仇役(かたきやく)としての強さを出すため、大柄な役者が演じます。横山劇画ではカッコイイが、『蒼天航路』となると度が過ぎる。


 では、実際のところはどうだったか。
 正史『三国志』によると、劉備はフィクションよりやや小さめの178センチ。ところが曹操に関しては、一切言及がありません。ただし魏・晋のころのエピソード集『新語(しんご)』(南朝宋・劉義慶(りゅうぎけい)403~444)には、ハッキリ貧相な小男と書いてある。それは「容止篇」に出る話。
 曹操が魏王だったとき、匈奴の使者を引見しようとしたが、自分は身体が貧弱なので、遠国の使者を威圧するだけの貫禄がないと考え、体格の良い臣下に身代りさせ、自らは刀を持って玉座の側に立った。
 そして引見が終わったあと、人をやってたずねさせた。
 「魏王の様子はどうだったか」
 匈奴の使者は答えた。
 「お見受けしたところ魏王は大変立派なお方です。しかし、側に侍立していた人物こそ真の英雄に違いない」
 報告を聞いた曹操は、追手を差し向け、この使者を殺させた、と。
 曹操が匈奴の使者を斬らせたのは、自分のトリックがばれたのを恥じたからなのか。「若年より機智があり、権謀に富」(正史『三国志』)んでいた曹操のこと、これしきの失敗で殺させたとは思えません。
 では、これほど眼力ある人物を敵国に帰してしまうのを恐れたからなのか。このころ北辺に眼をやると、烏丸(うがん)・鮮卑(せんぴ)・高句(こうく)が騒乱に乗じて華北に侵入、魏の脅威となりますが、匈奴にかつての威勢なく、216年、南匈奴は魏に来朝。曹操、匈奴の部衆を五つに分かち、領域内に居住さす。かくみれば、この説も成り立たない。
 この話自体はアヤシイが、曹操=小男説は信じてよいと思われる。
 小柄ながら眼光麗(り) 、異様な迫力があったのだろう。
(緑の地球131号 2010年1月)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?