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黄土高原史話<21>東西ほぼ時を同じくして by 谷口義介

 アテネ・オリンピックでは、何といっても女子マラソン。マラトンの丘をスタートしてゴールのパナシナイコ競技場まで激しい起伏あり、特に25キロから32キロ地点にかけて標高差80 メートルの上り坂。スパートする野口みずき、歩道脇に坐りこみ手で顔をおおって泣くポーラ・ラドクリフ。
 上空ヘリのカメラから見ると、コース周辺の丘陵には、造林したためか豊かな緑。ギリシアの風土については先入観があり、これは意外な発見でした。
 「山々は土におおわれた小高い丘をなし、今日<石の荒野>と呼ばれているところは、肥沃な土壌に満ちた平野がひろがっていたし、山々には木々の豊かに茂る森があった。
 「つい先(せん)だってまでは、それらの山々から、大建築物の屋根を葺けるほどの樹木が、数多く伐り出されていた」(田之頭安彦訳)
 プラトン『クリティアス』の描くアッティカ地方の景観です。
 プラトンが生れたのは第88回オリュンピア祭の第1年目だから、B.C.428年。
 アテナイの歴史のなかで人口が最大だったのはその前後で、市民身分20万弱・在留外人1万強・奴隷10万強で、総計30万以上。都市アテナイの拡大にともない、アッティカ地方の森林破壊が進みました。
 眼を東方に転じると……。
 「牛山は以前は樹木が鬱蒼と生い茂った美しい山であった。だが、斉の都臨(りんし)という大都会の郊外にあるために、大勢の人が斧(おの)や斤(まさかり)でつぎつぎと伐りたおしてしまったので、今ではもはや美しい山とはいえなくなってしまった。」(小林勝人訳)
『孟子』告子(上)にある一節です。
 孟子の生年はB.C.372年。宣王(在位B.C.319~301)のとき斉に滞在しましたが、その頃、周囲20キロの臨淄(図)には兵卒だけで21万、その他をあわせると70万。「牛山」も都市化が森林を食いつぶした一例です。
 

さらに引用を続けると……。
 「夜昼となく生長する生命力と雨露のうるおす恵みとによって、芽生えや蘖(ひこばえ)が生えないわけではないが、それが生えかかると人々は牛や羊を放牧するので、片はしから食われたり踏みにじられたりしてしまい、遂にあのようにツルツルの禿山となってしまった」。(同上)
 プラトンからも再度。
 「当時の国土は、毎年、ゼウスからの実りの雨を享受して、しかも現在のように、地肌をむきだしている大地から海へ、たちまち雨水を流しさってしまうようなことはなく、いたるところ豊かな流れに恵まれていた。」(同上)
 その後アッティカ地方を対象に3度森林保護条令が出され、孟子のあと荀子も時節に応じた伐採・植林の考えを述べているのですが……。
 過放牧による緑の喪失、樹木乱伐による水土流出。あたかも黄土高原の現況を見るが如し。
(緑の地球99号(2004年9月)掲載分)


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