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お金とは何か (MMT論者と財務省の常識の乖離)

財務省はダメおやじ、MMTはダメ息子、と言ってもいいだろう。
MMT論者は、自国通貨建て国債では財政破綻はしないということが常識だとしている。それに対して、財務省は財政黒字化を目指すことが当たり前だという。積極財政が良いのか、消極財政であるべきなのかの意見の対立だろう。

MMTの考え方では、日本のように自国通貨建て国債発行ができて借金が出来るような国では、財政破綻など起きないとして、一定のインフレ率を越えない限り財政赤字は問題ないとする意見。日本はデフレで苦しんでいたような状況だから、もっと積極財政に移行すべきだという。
ケインズ経済学であり、政府は、政府の支出は国民の所得になるということで、もっと公共事業を増やし、公務員も増やし、市場に資金が回っていくように支出を増やすべきだとする。
確かに簿記の感覚でいえばそのようになるのだろう。
お金を発行できる以上、一般の家計や企業の感覚で国家の財政を考えるべきではないとしているようだが、はたして、そうだろうか。国家が紙幣を発行できるとしても、そのお金の本質を見誤っていたなら、大きな誤算を生むことになる。

政府財務省は、プライマリーバランス、財政均衡化を目指し、財政の黒字化を目指そうとする。ただ、現在の民主主義社会では、その政治体制の中で国民の要望に応え、また、その選挙戦で票を得ようとすれば、支出が増えバラマキ気味にならざるを得ない。どうしても支出が増え赤字体質にならざるを得なくなる。その結果、1000数百兆円の赤字を積み重ねている。
もちろん、年金基金を代表に、今有るからと言って政治家たちがそのお金を票目当てなどで使い込み、最初は積み立て方式で成り立っていたものが、賦課方式という、新たな加入者の収めたもので賄わなければならなくなったという。それでも不足するために、結局、国債発行という借金で補填しなければならなくなっている。その為に様々な理由をつけて誤魔化しているようだ。資金の運用ではなくて、使い込みに近いというべきで、せっかく国民から集めた資金を活かせずに目減りさせた上に、税金で集めた血税すら生かすことが出来ずに政治を行っているとしか言いようがないだろう。

年金事業は、保険業務であり民間でも行っている。その仕事で収益を上げることが出来ないだけでなく、元々の基金を減らしているとなると、民間企業であれば間違いなく倒産である。政府のその業務はムダ以上に犯罪と言われても仕方が無いだろう。

そんな政府組織は、革命を起こされ政権が転覆されても仕方がないはずだが、民主主義では、そのような政治家を選んでいるのは国民であり、同じ穴のムジナとなり、一緒になって同じエサに食らいついている為に革命など起こり様も無いのかもしれない。

そんな悪循環に陥っている社会構造の為なのか、これ以上財政赤字を増やすことは、罪の意識が有って押さえたい気持ちが働くのだろう。そして、毎年の予算の中で借金に頼る部分が多くなっていくために危機感を強くもしている。財政規律を守ろうとする気持ちが強すぎるために財政支出を嫌がり、財源にこだわるのかもしれない。

ただ、過去の歴史を見れば、財政赤字が積み重なっていくことは仕方がない面も有るが、経済成長をする中でインフレが一定程度起きていくために相対的に借金の額が目減りしていくという流れが有るようだ。
しかし、今の大きな問題は、日本は経済成長していないということだと思う。経済成長どころか諸外国にどんどん追い越されている。
結局何が原因かと考えると、国全体で経済成長するための因子を造れなくなったということだろう。その因子とは、政府も企業もその仕事に価値ある仕事をしてこなかったということしか考えられない。特に政府である。
一般企業は、その収益が生死を分けるために価値ある仕事を生み出さざるを得ない。しかし、政府は違う。政府官僚は失敗を恐れ保身の気持ちが強くなる傾向を強くする。
今、日本ではその政府組織が大きくなり、その力も強くなり、昔のソ連などの社会主義国で起きていたような停滞が起きてしまっている。日本は社会主義が唯一成功した国だという話を聞いたことが有る。国民の真面目さが社会主義の欠点をカバーしていたのかもしれないが、それでも国の管理が強くなれば資本主義の長所が失われてしまい、やがてジリ貧にならざるを得ない。

要するに、双方ともに同じような悪しき側面を持っているのだが、一言でその悪しき面を言うとするなら、見えにくいところを見ないということだろう。現実と理想と言ってもいいが、それぞれの立場で現実を見ているけれど、理想というモノが見えにくいために、理想を間違って見ている。
言い換えるなら善と悪との判断に狂いが起きている。

積極財政にしても、消極財政にしても、必ず両面が有りプラスに働く場合とマイナスに働く場合とがある。全てに、良い子、悪い子、普通の子がある以上、状況判断を間違えると問題を起こす。双方ともに、そのお金の使い道の問題があり、タイミングと程度問題とがある。それらのハンドルとアクセルとブレーキを実施する時に必要なのが、理想で有り、何をもって善悪の峻別をするかという判断です。

この判断に関わって、そもそも「お金」とは何かという問題があるだろう。お金は、「信用」を背景にした道具でしかないということを見ていないことだと思う。信用は何をもって担保されるかということ。
信用は、表面的に見えるだけのものではない。お金の多寡だけではない。
信用の中には、理想もあれば、善悪もある。何を善とし、何を悪とするか、倫理的でもあり、道徳的でもあり、宗教的でもあり、難しい面も持っている。その信用にも良い子悪い子普通の子があるからだ。

MMT論者も財務省も、数字として、簿記レベルで考えたり、物としか見ていないようで、信用ということでは見ていないのかもしれない。
信用を失えば全て水泡に帰するということを考えていないようだ。
ただ、欲にまみれた人たちの信用も有れば、良識ある人たちからの信用も有る。

MMT論者や政府の欠点は、「お金」に対する認識であり、それを支えている「信用」や、その使い道における「価値」判断が狂っているせいなのではないだろうか。善悪の問題であり、その判断は、その人の立ち位置によっても決まるし、その人の世界観によっても決まるでしょう。それぞれの価値判断、正しさの判断は違い、皆、自分を中心にして考えますが、客観的に考えるべきだと言われても、どうしても、善意の第三者を持ってくることが出来ずに、自分の味方をする者を持ってくるしかありません。

結局は、信仰心の問題なのです。このような蛇行現象のようなことが起きるのは、客観的視点がとれないということ。善意の第三者に神なる存在を置けないこと。全人類の親である神、その視点から全てを見られないから、全てを自分にとっての正しさを基にして考えます。
要するに、自他を越えた崇高なる存在をイメージして考えることなく、自分自身を主なる神として考えているからです。
神なる存在を意識するも、自分たちに味方するような神、要するに民族神というような小さな神を持ってくる場合も多い。そしてそれぞれの正しさがぶつかります。良い神の中でも、最高レベルの神を持ってくるべきです。
少なくとも、全人類、全存在の親たる神です。普通の神や悪い神を持ってくるべきではありません。
話は、大きく全般的な話になってしまっていますが、基本は、信仰心に有ります。政府財務省、MMT論者の中の悪い人たち、間違いを起こしやすい人達には、この信仰心がありません。たぶんそうだと思う。たとえ信仰心は有ると言っていても、何に対するものか分かりません。悪い信仰も普通の信仰も有ります。
自分に対する信仰が多いでしょう。これは優秀な人達、それも左脳的にだけ優秀な人達であり、自分の有能さに自信を持ちすぎているからでしょう。
右脳的な優秀さは見えにくいために起きている現代病でもあります。

神の見えざる手

徴税のレベルにも良い子悪い子普通の子があり、税率が高すぎても少な過ぎても思ったように税金は集まらない。適切な最善の税率があり、そこを探るべきなのです。左脳的に計算するばかりでは、片目で見ているに等しく経済の流れに悪い原因を作ることになります。

政府の借金にしても同じで、簡単に借金出来たとしても、その借金が良い借金なのか悪い借金なのか、その使い道によっては善にも悪にもなる。良かれと思ってやったことが悪になるようなことを繰り返すなら、色んなところで悪循環を起こすことになる。

なんでもそうだけれど、少な過ぎても役に立たない場合もあれば、多すぎて悪影響を生むことが多いでしょう。しかし、一時期悪影響があっても借金なり徴収するなりして財源を作り対応するべき時も有る。

最近、面白いことが有った。
ウクライナ紛争でアメリカ、西側はロシアに経済制裁を加え、ロシアをじり貧に追い込もうとしたけれど、そうはならなかった。
逆に西側が窮地に追い込まれるようなことが起こった。

ロシアに貿易決済の基本通貨であるドルを使わせないようにすれば追い詰められると思い込んでいただろうが、そうはならなかった。
その理由は、そのお金の流れの元に在ったのは、資源でありエネルギーであり食料であり、本当は世界が欲しという、だれから見ても信用が有るものをロシア国内に、自らの手の中に持っているからです。信用とは、価値の変化したものであるということ。

MMT論者は、税金の徴収権をお金の持っている意味に加えているけれど、
政府が徴税しようがしまいが、本来のお金の持つ利便性には関係が無い。
そのお金の持つ信用は、税金として集めようが無関係であるということ。

私の小さい頃の思い出に、近所に買い物に行かされるのだが、その時にお金を持たされることは無かった。品物を受け取る代わりに置いてくる言葉が有った。「おいといてください」とか「つけといてください」だったと思う。
要するに信用を担保に取引をしていたのだ。
信用が有れば借金もできるし、信用さえ有れば、できる範囲は広がる。
ただ、その「信用」は単純ではない。洗脳もあれば思い込みもあり、この信用にも良い子悪い子普通の子があるということ。

現状として、今のまま財政赤字を続けていて国家としての信用が担保できるかどうか。円の信用がどこまで維持できるのか。
また、増税をして、これ以上国民負担率を上げて国民経済を阻害し続けて、社会として信用が担保できるのかどうか、国民が我慢できるのか。

債券や為替にしても関しては、投資家などの信用が主な要素かもしれないが、それにしても、彼らは数字だけで見て判断しているのではないだろう。
どのように目先、誤魔化しが有ったとしても、誤魔化しきれないモノは有る。見間違いは有るだろうが、それでどうなるかという判断はシビアに見ているだろう。突き詰めるなら、自分たちの利害を中心に見ては居るだろうが、結局は、神の子である以上、神なる存在からの信用というモノも潜在意識的に見極めようとしているはずだ。

「正直は一生の宝」ということわざも有る
最高の価値あるものは何かと考え続けるなら、見えてくるものが有るはずだ。どれだけ投資でお金をもうけようとも、そのお金を、また、何に投資したいと思うのか、何を手に入れたいと思うのか、無限の富を手に入れた先に見えてくる価値は何なのか、それは、神のみぞ知ることかもしれないけれど、本当は、だれもが心の奥で感じている事なのかもしれない。

今、信用を持てないようなことが社会には充満している。
その一角が崩れるならば、ドミノ倒しのように倒れるしかないのかもしれない。正直は一生の宝ということを信じ、無神論、唯物論を否定し、神の見えざる手が経済だけでなくすべてに働いていることを信じて生きていくべきだと思う。

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