「春泥棒」は夏の歌である。
はじめに
この作品は、n-bunaがツイッターで言及していることもあり、ネット上の解釈が固定化している。また、ヨルシカは曲やアルバムを通して一つのストーリーになっており、他作品(「盗作」など)と繋がったものとして解釈されている。もちろん「ヨルシカ」を研究するのであれば重要な視点であるが、「春泥棒」という作品単体には、もっと別の魅力があるのではないかと思う。今回は、あえてn-bunaの言及や「ヨルシカ」の物語性とは切り離して、本テクストを解釈していきたい。
私が本テクストにおいて最も重要でありその魅力を引き出していると考える要素は「視点」である。MVにおける視点を中心に歌詞やタイトルについて考察し、「春泥棒」の新たな解釈を提示したい。
※本文引用は「ヨルシカ - 春泥棒(OFFICIAL VIDEO)」(Youtube 二〇二一年一月九日(最終閲覧日:二〇二三年七月一九日)〈https://youtu.be/Sw1Flgub9s8 〉)の概要欄に記載されている歌詞による。また引用中の/は改行を示し、中略・傍線は筆者によるものである。
第一章 (誰にも見られることなく)
はじめに、私がもっとも気にしているMVについて確認していく。
🌸VR(virtual reality)
「春泥棒」のMVはCGによって作成されているが、目や頭の動きに連動して視界が細かく動くことなどから、今回はVR的な視点であるということを念頭に考察していく。
MV制作者としては、「相手が自分をどう見ているのかという視点」を意識したとしており、これは他作品も通して主人公となる男「をどう見ているか」という視点である。
ここにおいて、女が男をどう見ているかは意識的に描かれるのに対し、男が女をどう見ているかは全く描かれないことが気に掛かった。MVを通して、男が女の方を見ることはない。
VR視聴において「画面の内外の境界が取り払われ」、「映像を「シームレス」に見渡せる」おかげで、「春泥棒」において視聴者自身もまるで花吹雪の中にいるかのような誘導がなされている。メタバースと違い、資料に挙げられるようなライブや「春泥棒」の例だと、あくまでも「映像の中に自分が入り込んで見る」という一方的な視線になり、他者から見られることがない。この点が、資料②の「(誰にも見られることなく)見るという行為そのものにますます私たちを没頭させる」という特徴につながる。
現実のライブに行った際の視界とVR視聴による視界の違いとしては、「自らの身体が会場空間の中心点になったようにも感じられる」ということである(この書籍ではアイドルのライブのVR視聴について取り上げている)。現実では見られる対象(ライブの例であればアイドル)が大勢の人によって見られることにより中心性を有しているが、VR視聴の場合、見られる対象よりも自分自身に中心性が生まれる。これは資料②の「(誰にも見られることなく)見るという行為」とも接続しており、視聴者の一方的な「見る」視線を強調する。
ここまでの考察において、主観的な視点、さらにVR的な手法を用いることによって、視聴者を「他者から見られることのない自分中心の世界」に導くということが言える。次に、実際にMVを引用しながらテクストの読解をしていく。
🌸「見られる」視線の遮断
先にも述べたが、曲を通して男から「見られる」ことはない。このことについて、もう少し詳しく考察していく。
このように、基本的に男が女の方を見ることはない。しかし、例外的に男がこちらを見るようなシーンが登場する。
この二つのシーンは、過去の記憶の想起になるため、「川沿いの丘」で「木陰に座」って本を読む現在の男から見られているわけではないが、男の視線がこちら側を向いているため異質なシーンである。
ヨルシカの曲では顔が見えないMVがよくある(資料③・④参照)が、「春泥棒」の引用5・6では目だけ隠れており口は見える。口を見せることによって「顔はこちらを向いている」ということを示しており、「目線」の遮断を強調しているのではないか。
🌸第一章まとめ
VR的視点を用いたMV、実際に目の前の人間から見られることのない構成、そして見られる際に遮られる男の視線、という要素から、他者からの視線が遮断されているという特徴を指摘することができる。徹底的に「見られる」ことを排除されたMVは、視聴者に「自分だけが見る」という一方的で自分中心的な意識を植え付ける。
第二章 春か?
次に、本テクストの主題ともいえる季節や桜について考察していく。
🌸巨大な桜の樹
n-bunaがツイッターや対談(資料①)で述べている、立川の昭和記念公園の広場にある欅をモデルにしたという大きな桜の樹は、MVの中で二回登場する。
※発表では動画を引用して見せたが、記事に動画を埋め込めないため隣に動画を用意して該当部分の秒数を再生していただきたい。
電車の中から桜の樹だけが立つ空間を眺めるシーン。物語表象において電車は異界と常界の間の境界を移動できるという性質があるため、桜の樹だけがあり他に何もないという異質さからも、桜の樹が立つ空間が異界と捉えることができる。
女(自分)が見上げた真上にある桜が、先ほどと同じ桜の樹の影と繋がっている。女の視点が、常界とは別の世界、異界と繋がっていることを示唆している。
この二つのシーンから、桜の樹が立つ空間が異界であること、そして女の視点がその異界と繋がっていることが読み取れる。
さらに引用8- ⅰ の場面では、もう一つ重要な特徴がある。
手元の筆箱を見下ろしていた女が視線をあげて、真正面を見た3:50を境に、視界の不規則な揺れがなくなりカメラによる撮影のように変わっている(引用8- ⅱ 3:50-4:07)。はじめに真上から下に視線を移したシーン(引用8- ⅲ 3:37-3:43)と比べるとその違いは一目瞭然である。これは、女の一人称の視点から三人称視点への移動を示している。
MVに描かれる巨大な桜の樹の描写から、桜の樹が立つ空間が異界であり、女の一人称視点が異界と繋がっているということ、そして三人称視点において女の姿が見えないことを確認した。ここから、異界→女、常界→男、という対比が読み取れる。第一章において女が男から見られることがなかったのも、常界にいる男が異界にいる女のことを認知できなかったということができる。男と女は住む世界が違うのである。そして、「住む世界が違う」ということは、歌詞内容からも読み取れる。
🌸歌詞
ここまでMVについて見てきたが、ここからは歌詞について考察する。MVで確認できるのは、女の視点であるということと、一面に桜、春という季節が散りばめられているということである。しかし歌詞を見てみると、その季節が「春」でないということが読み取れる。
歌詞からは、季節が晩春・初夏であることが読み取れ、MVの満開の桜と季節がずれている。歌詞中に何度か登場する「木陰に座る」という歌詞が、川沿いの桜並木の下のベンチに座って本を読む男のことを言っているとすると(引用1)、この歌詞は男側の視点であるということができる。通常、満開の桜の木の下に座っていることを、「木陰」に座るとは言わないのである。ここからも、春→女、初夏→男、という世界のズレを指摘できる。
🌸第二章まとめ
MVで印象的に描かれる大きな桜の樹のシーンと、歌詞内容から男と女の住む世界のズレを指摘した。二つのズレを統合すると、〈女=異界=春〉、〈男=常界=初夏〉とまとめることができる。このことを意識した上で、最終章で言葉について考察していく。
第三章 ただ葉が残るだけ
MVの中では、男と女の会話は読み取れず、さらに歌詞が画面上に示されることもない。MVから読み取れる物語には言葉がないのに対し、言葉で作られる歌詞はどのように読み取れるのか。曲中の「言葉」という歌詞に着目して考察していく。
🌸言葉が語れるもの、語れないもの
言葉で書かれた歌詞であるのに対し、歌詞中に出てくる「言葉」は「言葉足らず」「言葉如きが語れるものか」と言葉を軽視していることがわかる。「声も忘れて」「瞬きさえ億劫」な「花見」とは、言葉で形容することなくじっと目の前の桜を見つめているということ。目の前のことを言葉で形容することはできないということを、「花開いた今を言葉如きが語れるものか」という歌詞で表している。
最終部のこの歌詞は第二章で男の視点が初夏であるということを示すために引用したが、言葉とも関係している。この部分の「葉」を「言の葉」と捉えると、最後には言葉だけが残る、という解釈ができる。これについてはネットの考察でも言われているが、「今を言葉如きが語れるものか」と言う意見からどのように「言葉が残る」に繋がるのかということを考えたい。
男が「言葉如きが語れるものか」としていたのは「今」である。それに対し「残る」とは、「過去のものが現在(未来)まで残る」ということであり、ここでいう「葉」は過去の出来事を示すと捉えることができる。「葉が残るだけ」という歌詞から、むしろ言葉以外では過去を残すことはできないという解釈もできる。
「言葉」という歌詞から、男の「今を言葉で語ることはできないが、過去の出来事は言葉でしか残すことができない」という態度が読み取れる。男は言葉による過去の記述を大事にしているのである。これと関連して、最後に最終部に登場する本について考察する。
🌸山口青邨
「春泥棒」で登場する男が読んでいる本は、最終部で内容が読み取れるようになっている(引用15)。山口青邨の『庭にて』という句集であり、これはネット上でも多々指摘がある。しかしこの句集の本テクストとの関連について詳しく考察したものはないため、この部分について考察していく。
国会図書館デジタルコレクションで閲覧可。
抜粋は筆者が書き写して作成したもの。
〈 https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000940306-00 〉
昭和二四年の一年間で山口青邨が詠んだ歌の春の部分である。「春泥棒」において男が「春を想起している」ということを示す働きがある。
句集全体を通して、人や無機物はほとんど出てこない。植物や天気、動物や虫などが多く出てくる。山口青邨は自然物の写生的な描写を重視する歌人だったということが言われている。「桜」というテーマを際立たせるために、自然物の描写が多い歌人を用いたのではないか。
また、俳句は散文や短歌と違い「省略」の文学であるため、読者は言葉で書かれたもの以外の要素を想起することが重要である。ここから、男の「過去の記述から他の記憶を想起する」という文字に対する態度が読み取れる。
🌸第三章まとめ
今目の前を言葉で語ることはできないが、過去は言葉でしか残すことはできない。男の言葉に対する態度を読み取った上で、男が読んでいる山口青邨の『庭にて』について考察した。そこからは、①男が春を想起していること、②想起する春の内容が自然物であるということ、③書かれた言葉から他の要素を想起することが重要であるということ、の三点が読み取れる。言葉を重視するのは男であり、女側に言葉の要素が見当たらない。ということは、女が言葉によって書かれる「過去」であり、男が過去を言葉によって記述する「今」であるという対比を指摘することができる。
まとめ
🐶コーギー
ここまで、繰り返し〈女=異界=春=過去〉、〈男=常界=夏=今〉という世界のズレを強調してきたが、私はこれを決して「対立」とは捉えない。むしろ逆に、レイヤーのように重なっているものなのではないか。
たとえば、第二章で述べた「異界と常界」について考えると、引用7で挙げた桜の樹のシーンは、直前の夏の花火の空と繋がっている。この点については「春と夏」が重なっていると捉えることもできる。また同様に引用8の一人称から三人称視点への移行も、「異界と常界」の接続を示唆している。
ここで一つ結論のようなものを言ってしまえば、女のVR的な視界(視聴者が見せられている、満開の桜の「川沿い」の「木陰」)は、男の視界では一面の葉桜から緑の光が漏れる夏であるということができる。男の視界は楽曲の最後4:26〜から描かれるが、ここで女の見る春の世界と男のいる夏の世界が重なっていることをさらに補強する要素としてコーギーが登場する。
楽曲の初めでもコーギーは登場しており、実はコーギーの目は女が唯一他者から受ける視線なのである。
安直ではあるが、犬や赤子は幽霊など大人には見えないものが認知できるとされることが多い。コーギーは男と同じ〈常界〉側の存在であるにも関わらず、〈異界〉である女に干渉できる存在として描かれているのではないか。
テクスト最終部で男の視線に切り替わった際に登場するこのコーギー(引用17)は、男の横に視線を向けている、男の見る世界では、冒頭のコーギー(引用16)も最後のコーギーも同じリードに繋がれたコーギーである。しかし女の見る世界からは干渉できる犬のみが見え、リードと飼い主は視認できない。冒頭で犬が女の方に寄ろうとしたのに後ろに引っ張られるようにして女に届かないのは、飼い主がリードを引っ張ったからである(引用16)。このように、コーギーは男の見る世界と女の見る世界が重なっていることを示す道具なのである。
🌿「春泥棒」
ではなぜこのテクストが、女側の世界に視聴者を誘導するような構成になっているのだろうか。第一章で述べたように、このテクストはあまりにも「見られる」視線が遮断されており、視聴者に「自分だけが見ている」ことを強く意識させる。それは同時に、「自分は見られることはない」という意識にもつながる。しかしこの曲のMV・歌詞共に細かく見ていくと、女の世界と男の世界が重なっていることがわかる。
この曲の女はすでに死んでいるという解釈が多いが、生者/死者に限らず、自分/他者と一般化しても言えることである。思ったより人間の世界は繋がっており、自分が誰かを「見る」とき、他者もまた同様に「見る」のである。それは、ネット社会において匿名でメッセージをやり取りすることに慣れた現代へ投げかけているのではないか。
「春泥棒」は、徹底して女の世界だけを視聴者に意識させることによって、そこに重なる他者(男)の世界に気づかせるテクストなのである。それに気がついて初めて、「春泥棒」は夏の歌であると(も)言えるのである。
発表を終えて
初めは男と女の対立として結論をつけたが、「視聴者が女の世界に誘導されているのはどういう意味があるか」という質問を受け、その点を解消するために先生にいただいたアドバイスをもとに再考した。以下に考えきれなかった疑問点を述べる。
・歌唱について
→歌詞が男の視点であるのに対し歌唱が女声であること、また時折男声でハモリが加えられていることについて。
→ヨルシカが女性ボーカルだから、といえばそれまでだが、男の視点を女が歌うこと、ということで何か考えられないか。
・ベートーヴェン「ピアノソナタ第一四番」(月光ソナタ)
→MV中に登場するグランドピアノにおいてある楽譜。
→ヨルシカのライブでこの「月光ソナタ」が流れたということもあり、これはヨルシカの物語に繋がると思い今回は排除した。
→楽譜も記号である。言葉につながるか?
・タイトル「春泥棒」
→フロアから「これが夏の曲だとしたら、タイトルはどう回収できるか?」という質問があがった。
→視聴者の誘導という点で「春」という言葉が入っていないといけないと感じるが、「泥棒」については考えることができなかった。
→やはり「盗作」など、ヨルシカの物語と繋げる必要があるのではないか。
・句集
→もう少し詳しく考える必要がある。
→「言の葉」を引用するのであれば「古今和歌集」も引っ張れるが、この場合の「葉」は桜ではないことに注意。
→『庭にて』の句集全体を通した解釈も加えられるか?
参考文献
・門林岳史・増田展大編『クリティカル・ワード メディア論 理論と歴史から〈いま〉が学べる』フィルムアート社 二〇二一年二月
・宮本真也「第二章 「見える」/「見えない」の社会理論 まなざしの前提としての社会的承認をめぐって」『〈みる/みられる〉のメディア論 理論・技術・表象・社会から考える視覚関係』ナカニシヤ出版 二〇二一年四月
・山口青邨『庭にて』竜星閣 一九五五年九月
・ヨルシカ/n-buna Official「ヨルシカ - ただ君に晴れ(MUSIC VIDEO)」Youtube 二〇一八年五月四日〈 https://youtu.be/-VKIqrvVOpo 〉(最終閲覧日:二〇二三年七月二三日)
・ヨルシカ/n-buna Official「ヨルシカ - だから僕は音楽を辞めた(Music Video)」Youtube 二〇一九年四月五日〈 https://youtu.be/KTZ-y85Erus 〉(最終閲覧日:二〇二三年七月二三日)
・ヨルシカ/n-buna Official「ヨルシカ - 春泥棒(OFFICIAL VIDEO)」Youtube 二〇二一年一月九日〈 https://youtu.be/Sw1Flgub9s8 〉(最終閲覧日:二〇二三年七月一九日)
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