見出し画像

改作ドラえもん『空気中継衛星』①陽だまりの庭


あらすじ:藤子・F・不二雄先生作『ドラえもん』から『空気中継衛星』という話に着想を得て作りました。と、いっても話の内容はほとんど関係ないです。




改作ドラえもん『空気中継衛星』


陽だまりの庭




 五月晴れの陽だまりの庭で、一人の老婆が籐椅子に腰かけている。深い皺の間から、わずかに開いた瞳で、生け垣近くの鬱蒼とした暗がりを見つめている。この老婆の他に、庭に人影はない。先刻、施設の職員が老婆に宛てられた郵便物を手渡しに来たきりだ。
 ○○園に入居して一年、庭先に据えられたこの籐椅子が老婆の指定席だった。老婆の居場所は他にはなかった。老婆はここで、全くの孤独だった。  


 老婆はかつて、○○園にほど近いS市に店を構える金貸しの女主人だった。あなたがS市の寂れた飲み屋街の、どの店でその名を尋ねても、知らぬといわれることはないだろう、名の知れた金貸しである。しかしまた、彼女がいつS市に来て、どうして金貸しになったのか、と聞くのであれば、答えられるものはないだろう、得体の知れない金貸しである。そんな根無し草が、己が腕一本で、街の隅々まで根を張り巡らせたその辣腕は、人に言わせれば人非人、悪魔、吸血鬼の所業である。しかしまた、彼女にとっての人生とは、人非人、悪魔、吸血鬼との果てしない格闘に他ならなかったのである。
 その生涯の中で、彼女は誰のことも信じなかった、したがってまた、誰からも信じられなかった。だから彼女に耄碌の兆しが見え始めると、店の人間は挙って彼女を追放する計画を練り始めた。店じまいのあと、夜な夜な開かれていた秘密の会合で、従業員が盛んに発した言葉をそのまま借りるならば、彼女を「どこに捨てるか?」が店の全員の関心事だった。
 そうして老婆は、○○園に「捨てられた」。一生かけて蓄えた財産をすべて失って。金貸しの女主人の前にひれ伏して深く垂れられた頭はあれだけあったのに、○○園の老婆の前にはその一つとして現れない。金貸しの女主人は、もう死んだのである。老婆も、それを覚えてすらいないだろう。
 しかし―ああ、因果なものである。彼女がいつも嘲りを込めて客を見据えた、傲岸で、陰険な眼差しは、何者でもなくなった老婆にも化石のように残り、今度は施設の住人や職員たちに注がれた。それは、常に人の心を苛立たせる眼差しだった。いつしか施設の住人が彼女に話しかけることはなくなり、職員たちは至って事務的に、そして幾分ぞんざいに彼女に接した。先ほども、呼びかけに応えない老婆に焦れた職員は、彼女の口元に耳を寄せて「○○さ~ん‼お届け物!ここに置いといたからね‼」と苛立ちを隠さない大声で言ったきり、その場所を後にしたのである。
 

 二階の大部屋の開け放たれた窓から、時代がかった歌謡曲を合唱する歌声と手拍子が、風に乗って運ばれてきて、庭の陽だまりに消える。老婆は一人ぽつねんとして庭の隅を眺めている。そうして過ごす彼女は、何を考えているという訳でもない。ただ歩み終えようとする生涯のささくれた手触りだけが、彼女にまとわりついて離れないのである。
 その物憂い感触を振り払うように、彼女は半身をよじり、テーブルの上に置かれた小包にようやく手をかけた。
 小包の中には小さな木箱が入っていた。老婆の手の平にちょうど収まるぐらいの、くすんだ木目をした、焦茶色の木箱である。彼女は脇についた金色の留め具を爪先で弾いて、蓋を開いた。
 箱の中は宝石箱のように臙脂色の布を張った台座になっていて、その真ん中に穿たれた窪みにぴったりと形を添わせて、小さなガラス瓶が収められていた。

ガラス瓶。
そう、先端に付けられたコルクを含めて、老婆の人差し指ぐらいの大きさの、ありふれたガラス瓶である。
誰も、宝石のように丁重に扱うものはないような代物である。
それに老婆が瓶をとりだして、いくら中を覗いてみても、色のないガラスの胴部は庭先の景色をさえぎるものなく透かして見せるばかりで、中に何かが入っている様子はないのである。
何の変哲もない、空の、ガラス瓶である。

一体、誰が、何のために、こんな物を大層な箱に入れて老婆に届けたのだろう?
もし、それを彼女に尋ねたとしても無駄なことだろう。
彼女の胸の内に、彼女の記憶はもうないのだから。
だから老婆が瓶を目近に寄せて眺め回していても、彼女の心にはさざ波一つ立つことはないのである。


ふと、瓶を玩んでいた老婆の指先が、先端のコルクに止まった。
うつろな眼差しを浮かべたまま、何を思うでもなく、彼女は、そっと、そのコルクを引き抜いた―。


その刹那だった。
老婆の心の奥底で、何かが、微かに脈打った。
その何かはたちまちのうちに、沸々と湧き上がる奔流となって、老婆の元へ押し寄せてくる。
一瞬のこと、老婆を飲み込んだその奔流は、彼女の心を彼女の体から運び去り、遠い彼方へと誘った。
陽だまりの庭を遥かに隔てたその場所で、老婆の前に、何かが立ち現れた。
 

しかし、それは一瞬のことである。
一瞬の後に、その何かは跡形もなく消え失せた。
そして、陽だまりの庭の籐椅子の上に腰かけて、老婆はやはり暗がりを見つめている。
何一つ変わることのない、五月晴れの一日である。




続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?