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『カルロスの夕暮れ』②(完)

あらすじ:自分が死んだ一日をもう一度生き直す男、カルロス。彼は上司フェルディナンをからかおうと、職場に赴くが…


 昼食に出掛けた社員が戻っていないらしく、建物の中は人気が少なかった。入口の左手に設けられた受付には女職員が一名、億劫げに手元のパソコンを動かしていた。この女職員はドアが開いたのを見て眼だけをそちらに向けたが、それが顔馴染みのカルロスだと分かると、直ぐに視線を戻してしまった。カルロスはよろけるように、受付の方に近付いて、カウンターにもたれかかりながら、彼女に挨拶をした。
「おはよう、ナシャ。今日はアンタの辛気臭い顔に全く似合わない何とも清々しい日だね!そうだろう?こんな日にセコセコ仕事をするなんて実に馬鹿げていると思わないか?」
 仕事の途中を妨げられたのだと強調するように、ナシャは如何にも大義そうに、勿体ぶって視線を上げると、今度はカルロスの顔をまじまじと眺めたあと、眼を伏せて曰くありげな深い溜め息を吐いた。
「ねえ、カルロス。アンタを見てるとあたしはねえ、神さまってほんとにいらっしゃるんだ、あたし等はいつも神さまに感謝しなきゃいけないんだって気持ちが起こってくるのよ。本当よ…嘘じゃないわ」
「へえ、そりゃあまた、どうして?」
「フェルディナンよ。」遥か彼方を見るようにも、眠気に襲われたようにも見える細目をして、ナシャが言う。
「あの人、またお腹を壊しちゃって、午前中会社をお休みしてたのよ。ほら、この間末っこが小学校に入ったって話をしてたでしょう。彼、滝みたいに汗を流して仕事をしているわりに、給料はそんなに高くないのね、育ち盛りの子を何人も養っていくのは大変なのよ。それで、家のご飯では、痩せ我慢を張って(ナシャはここで薄笑いを漏らした)自分の分を子供に回しているらしいわ。
「でもやっぱり、あの巨体にそれじゃあ物足りないのね。夜中にこっそり冷蔵庫を漁って、むしゃむしゃやってるらしいわ。それで昨晩戴いたのが、とっくに古くなったタコのマリネ…(「へえ、タコの。」とカルロスは片目を吊り上げて驚いてみせた)それが、見事に大当たり。会社はおろか、家のトイレから一歩も動けなくなっちゃったのよ。
「アンタこの間、フェルディナンに大目玉喰らったでしょ、次はクビだって言われたらしいわね。でも、懲りずに今日アンタがズル休みしている間、アンタに御執心の神さまがフェルディナンを足止めしちゃったってわけよ。フェルディナンはアンタがサボったのを知らないわ。アンタがサボって今更困ることもないだろうから、告げ口する連中もいないだろうし…
「やっぱり、慈悲深いのねえ…神さまって。」遥か彼方を見るようにも、眠気に襲われた様にも見える細目を一層細くして、ナシャは続ける。「アンタみたいな給料泥棒にも救いの手を差し伸べるなんて。あたしが神さまだったら、とっくに地獄行きにしてやるのに…」
 カルロスは少し考え込むような顔をしてナシャの話に耳を傾けていたが、話が終わるといつもの浮薄な口調のまま、ナシャに尋ねた。
「それで、フェルディナンはまだ会社に来ていないのかい?」
「いいえ。さっき、ここを通っていったわ。真っ青な顔をして、お腹に手を当てながら、身体を丸めてね。」
 フェルディナンの腹痛!それはカルロスにとっては全く想定外のことだった。何故なら彼は、怒り狂ったフェルディナンに告別の挨拶をし、颯爽と踵を返すシーンを、この一日のクライマックスにしようと考えていたのだから。
 『あの野郎、全く食意地が張っていやがる!おかげで、俺の予定がパーじゃないか』カルロスは心の中でフェルディナンに叱責を加えたが、彼は気を損ねるどころか、益々愉快な気持ちになり、胸の奥から新しい喜びが込み上げてくるのをはっきりと感じた。青い顔をして、体を丸めながら、出勤してくるフェルディナンの姿が、まざまざと思い浮かべられた。そうして、フェルディナンの顔を一目拝んでやろうという気持ちがより一層強くなった。
「今日一日ぐらい休めばいいのにねえ、アンタとは大違いよ」と呟いているナシャに一言言って、その場を後にしたカルロスは、建物の突き当たりのところでまた立ち止まった―そして、ふしだらに伸びた顎髭を揉みながら悪戯っぽい微笑を浮かべた。
 6階にあるオフィスに行くために、エレベーターを使うべきか…?階段を使うべきか…?これは、きわめて重要な問題であるようにカルロスには思われた。だから、たっぷりと時間を費やして検討を重ねることにきめたのである―その間時おり、冷ややかなナシャの視線が彼の背中に浴びせられていた。


 カルロスが六階に着いた時、ちょうど、トイレから青い顔をしたフェルディナンが亡霊のように身体を出してきた。フェルディナンはカルロスの顔を認めると、如何にも苦しげに、弱々しい微笑を取り繕って言った。
「やあ、カルロス。もう帰ってきたのかい?君にしては早いなあ」
カルロスは親しげにフェルディナンの挨拶を迎えた。
「ええ。午前中の仕事がまだ片付いていなかったもんでね、昼休みの内に済ましておこうと思ったんですよ」そう言うと、カルロスはやれやれという風に肩をすくめてみせた。
「ところで、フェルディナン。お身体の方は大丈夫なんですか?」
「ああ、なに…どうってことはないんだ。本当は朝から来れたんだがね…」
張りのない声で言いながら、フェルディナンは身体を丸めたまましきりに大きなお腹をさすっている。
「そんな!今でも大分お辛そうですよ、今日は一日お休みなさったほうが、良かったんじゃありませんか?」
「とんでもないよ!君も知っているだろうけど、今のウチはそんな余裕全くないんだ。今日だって、本当は朝からやんなきゃいけないことが貯まっていたんだ…遅れた分を取り返すのにどんなに時間がかかるのか…」
 フェルディナンは次第に自分に言い聞かせる様な口調になり、声は益々か細く、身体は益々丸まっていった。その間にも、彼の太った手が、大きなお腹の上で行き来を繰り返している。カルロスは、ブツブツと呟いているフェルディナンの元に歩み寄ると、彼の肩に手を添えて、優しい口調でそっと言った。
「フェルディナン。あなたの頑張りはよく知っています。ですが、自分の身体が一番大事ですよ。あなたが倒れてしまったら、誰がご家族を支えていくんです。ご家族のためにも、どうぞ自分の身体を労ってください…」
 フェルディナンの手の動きが止まった。彼は前方を見つめたまま、動かなくなった。カルロスは、気づかれないよう、少し首を伸ばして、フェルディナンの顔を盗み見た。フェルディナンの眼には涙が浮かんでいた。それを見たとき、カルロスはこの上司にこれまで感じたことのないような愛着を抱いた。しかし、彼には、自分のその感情に気づく余裕はなかった。というのも、腹の底から込み上げてくる笑いを堪えるので、彼は精一杯だったのである。カルロスはフェルディナンとともに、神妙な面持ちを浮かべながら、しばらくの間その場に立ち尽くしていた。


 五時を回った頃のことである。しんとしたオフィスに突然、雷鳴のような物音が轟き、地響きが伝ってきた。俄に外が騒がしくなり、何台もの消防車やパトカーがけたたましくサイレンを鳴らしながら、通りをかけていくようだった。

 「爆発だ!」オフィスの誰かがそう叫んだ。「テロリストだ!」「もう何棟も燃えているらしいぞ!」と口々に応える声があった。一人が立ち上がり、爆発音のした方角の窓へ駆けていくと、部屋中の全員が後に続いて、窓の元に詰め寄った。全員、いや、その中でただ一人、カルロスだけは席に座ったまま、静かに、そして微かに悲しげに、その様子を眺めている。
 小さな窓枠にぎゅうぎゅうになった人だかりには、フェルディナンの大きな体も混じっていた。彼は狭い隙間に首を突っ込んで、隣の人たちと盛んに意見を交わしているようだった。爆発音は相次いで鳴り響き、往来の喚声は時を追うごとに大きくなっていった。カルロスはしばらく椅子に座ったまま、その様子を眺めていたが、やがて椅子の背にもたれかかると、仰向けになって、真っ白な天井に視線を漂わせた。ふと、視界の片隅に、小さな茜色がひらめくのに、カルロスは気が付いた。彼は首を反らせて、逆向きに、室内を見渡した。すると、フェルディナンたちの方とは反対の側、非常用の外階段に続くドアの曇りガラスがあたたかな茜色に染まっているのが見えた。それは多分、夕暮れの陽ざしが差すのだろう。カルロスは立ち上がった。そして、フェルディナンたちに背を向けて、茜色の曇りガラスの方へ歩き出した―
 ヒュウ―ドアを開いたカルロスは、そう短く口笛を吹いた。濡れるような赤色をした夕焼けが空一面に広がっていた。見晴らしの良いこの踊り場からは、地平線に横たわった太陽が、街の不揃いな屋根を黄金色で浸しながら厳かに身を沈めていくのがよく見える。背の高い建物や遠くに見える尖塔は、長く、細く、瞑想的な影を差し伸ばして、辺り一面は時間が止まったような静寂に包まれ、その中ではあの往来の喧騒も、潮騒の様に響いていた。
 カルロスは、金属質な靴音を立てながら歩を進め、踊り場の鉄柵にもたれかかると、シャツの腕に半分顔を埋もれさせながら、長いことこの夕暮れを眺めた。朝からの暑気は僅かに和らぎ、爽やかな空気を交えた風が頬を撫でた。その風に、誘われたのだろうか。カルロスの胸の中に、この一日の、様々な出来事がよみがえってくる。カルロスは、その一つ一つを手繰り寄せ、思い返していった。

『俺は今日、ぐっすりと眠りこけてやった、こいつは中々気持ちがよかったな。フェルディナンの腹痛は治ったかな?あいつは無駄なところに労力を使うからな。少しは手を抜いたほうが身のためだぜ!それから食うものには気をつけろよ!ところで、ナシャの奴は神に感謝を捧げると言ってたな。まったく、あいつの職務熱心な地獄耳が、いつか世の中のために役立ちますように…そうそう、俺はエレベーターを使ってやったぜ、これはなかなか難しい選択だった訳だが…それにしても―』


 それにしても、とカルロスは目の前に広がる夕暮れの景色にまた眼を向ける。カルロスはその夕暮れを、美しいと思った。柄にもない感懐だった。

 それにしても、カルロスは心の中で言い直してから、呟いた。後ろから、フェルディナンたちの騒ぎ声はまだ聞こえる。


「悪くない、これはなかなかに…悪くないもんだ」
 噛み締めるように呟いたその口元には、幾たびだろう、この日彼の見せたあの悪戯っぽい微笑が、やはり浮かんでいる。



『エピローグ』




カルロスの死亡診断書より

  氏名:カルロス・ダ・シウバ・ヒメネス
  享年:31
  死亡時:西暦×年×月×日17時27分
  死因:転落死。鉄柵の崩落に伴う。

以下略…




カルロスの夕暮れ 完

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