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改作ドラえもん『空気中継衛星』②匂売り(前半)


あらすじ:先週、ちょっと立て込んでいて投稿ができませんでした。なるべく週一回のペースを守りたいですね…




改作ドラえもん『空気中継衛星』


「匂売り」



うだるような夏の日暮れの、物寂しい町外れの道を、ひとりの少女が歩いている。長く長く、歩いている。
行く宛てはなかった。
「お外で遊んでおいで」と父に促されるまま、どうしようもなく家を出て、それからずっと、歩いていた。
帰る宛てもなかった。
だから、ただひたすらに、砂利を踏む自分の足先を見て、見知らぬ場所へ、身を捨てるように少女は歩いていた。


 少女の父は、長く肺を患っていた。父が病気に倒れてから暫くしたある日、少女の母は二人の前から姿を消した。それから、身寄りのない父は、町外れの粗末な貸家に六畳間を借りて、そこで少女と二人で暮らしていた。
 暮らしはとても貧しかった。わずかばかりの持ち金はすぐに底をつき、質に出す品物もなくなり、借金取りや家賃の取り立てが毎日のように玄関の戸を激しく叩いて、少女の耳を脅かした。
 それでも、少女は少しも不幸ではなかった。小さな部屋の中で、少女は父とずっと一緒にいられるからだった。その中で、父は実に色々な話を少女に聞かせてくれる。例えば、軒端を訪れる鳥のこと、子供の頃に聞いたおとぎ話のこと、彼が海の向こうの国に行った時のこと、そこで初めて見た飛行船のこと、「アイスクリイム」の美味しかったこと、見たこともない動物たちのこと。そんな話を、父の布団の傍らにうずくまって少女はいつまでも聞いた。するとみすぼらしい六畳間の外に、鮮やかな光に彩られた広い世界が開け拡がってくる。そして、少女は父とともに想像の翼に乗って、その広い世界を自由に飛び回るのだった。だから、少女は少しも不幸ではなかった。
 けれども、死の影は刻々と父の元へ迫り来る。発作は日を追うごとに激しくなり、そのたびに身を裂くような咳音が部屋を劈いて響き渡った。少女は発作が始まると、部屋の片隅にうずくまり、耳を塞いで、しくしくと泣いた。父にはそれがとても辛かった。だから彼はいつも発作の兆しを感じると、娘を近寄らせ、そっと背中に手を添えて「お外で遊んでおいで」と言うのだった。そうして少女は、何処へともなく、歩いていくのだった。


 だから、少女は歩いている。眼を落して、刻々と伸びていく長い影をまるで引きずるようにしながら、歩いている。日没がもう近いようだった。何時しか往来に人の姿は絶えてなくなり、静まり返った夕暮れの中には、少女の足音だけがぽつぽつと響いていた。
 そんな時だった。少女のもとに奇妙な、耳慣れない物音が聞こえてきたのは。じりじり、という何かが擦れるような音と、きゃらきゃら、という鈴を振るような甲高い音。その音は初めのうちはか細く、そしてだんだんと大きくなって、少女の耳に伝ってきた。少女は顔を上げた。すると、夕日の傾いた道の向こうから、一人の老人が後ろに荷車を牽きながらゆっくりとこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
 何だか不思議な感じがした。荷車を牽いて街を練り歩く飴売りや焼き芋売りの姿を、少女は見たことがある。けれども薄汚れた作業着を着た彼らとは違って、小綺麗な背広服に身を包み、山高帽を被った老人の出で立ちは、とても上品で、街の人間とは違う空気を纏っているようだった。老人の牽く荷車は、彼の背よりも少し小さいぐらいの古びた木製のものだった。少女に聞こえた、じりじり、きゃらきゃら、という音は、荷車の車輪と荷台の中身が立てる音らしい。その荷台には、臙脂色のカーテンが掛けられていて、中身を覆い隠してあった。陽ざしを浴びてカーテンはきらきらと輝き、脇を風が吹き抜ける度に、襞に含ませた黄金色の陽光がふくよかに波打っていた。
 きっと遠くから来たんだ、少女はふとそう思った。老人の風貌が、荷車の立てる不思議な音が、風になびいて輝くカーテンが、そう思わせた。何を運んでいるのかな、この町に用があるのかな、どこかへ行く途中なのかな、様々な疑問が少女の頭に去来した。何時しか少女は足を止めて、この風変りな荷車が自分の前を通り過ぎるのをじっと見つめていた。ゆっくりと進む荷車の音だけが、往来の絶えた夕暮れの道に長い響きを曳いていた。
 すると、少女の目の前で荷車が止まった。音が止んだ。少女は、荷車を牽く老人の顔を見た。老人は、少女の方をじっと見つめていた。二人の視線が通い合うと、老人はにこやかに微笑んで、少女に語りかけた。



「こんにちは…お嬢さん。」


優しい声が、夕暮れに響いた。


続く

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