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改作ドラえもん『空気中継衛星』③匂売り(後半)


あらすじ:大分暖かくなってきましたね


「匂売り」②


「それ、なあに?」少女は老人の牽く荷台を指さして言った。
「これはね、わたしの商売道具さ。わたしはこれを持ち歩いて、いろんなところを回っているんだよ」老人は言った。
「お店屋さん?」
「うん、そんなところだね」
「何のお店屋さんなの?」
「気になるかい?」少女はコクリとうなづいた。
「よし…じゃあ、ちょっとだけ見せてあげよう」
 ニッコリと笑ってそう言うと、老人は荷台にかけられた臙脂色のカーテンをめくってみせた。荷台の中は三段組の木棚になっていて、それぞれの段に、様々な色をした小さなガラス瓶がぎっしりと並べられていた。
 少女の耳に聞こえたきゃらきゃらという物音は、このガラス瓶が触れ合う音だったのだろう。色とりどりの瓶は、夕暮れの陽ざしを浴びてきらきらと輝いていた。
 その一つを取り出すと、老人は少女の前にかがみこみ、瓶を少女に握らせた。それは、青色のガラスでできた瓶だった。
「あけてごらん」老人は、瓶の先につけられたコルクを指さして、少女に言った。
 少女は言われるとおりにコルクを外した。
 すると、瓶の中からもうもうと湿った空気が溢れてきて、少女の鼻先をついた。粒の粗い、土の立てる湯気のような、そんな匂いがした。その匂いを少女はよく知っていた。
「雨の匂い…」少女は、驚きを交えた小さな声でそうつぶやいた。
「そう、その瓶の中には、雨の匂いが詰められているんだ」少女に向かって微笑みながら、老人は言った。

 それから老人は、様々な色をした瓶を荷台から取り出しては、少女に開かせた。不思議だった。瓶を開くたびにその中からいろいろな物の匂いがあふれ出してきて、少女を驚かせた。
 山吹色の瓶を開けば、ツンとした匂いがして、それから口の中にほんのりと甘い味が広がった。「その瓶には、みかんの匂いが入っているんだよ」と、老人は言った。
 真っ赤な瓶は、うっとりと、誘い込まれるような匂いがした。「それは、バラの花の匂い」と老人は言った。
 そして緑の瓶には、こんもり茂った草いきれの匂い。くすみがかった黄色の瓶には、少女の馴染みのある匂いがして、「知ってる!たたみの匂いでしょ!」と弾んだ、明るい声で少女が言うのに、老人はうなずいて見せた。
 続いて、雨の匂いの瓶よりも更に青く、深い藍色をした瓶を開いて少女は、「これも知ってる。海の匂いでしょ、昔お父さんと一緒に行ったことがあるもの…!」

 何時しか、先程までの沈んだ気持ちを忘れて、少女は老人の差し出す不思議な瓶に夢中になった。頭の中の記憶をたどってその匂いを思い出そうとするのも楽しかったし、それをあてる度に老人が微笑みながらうなずいてくれるのもうれしかった。

「じゃあね、これは分かるかな?難しいよ」

 そう言ってまた、老人は瓶を手渡した。今度は薄いピンク色をした瓶。少女はコルクを抜いて、すうと息を吸った。
 その瞬間、少女の頭の中を、切れ切れの記憶が閃光のように瞬いた。けれどもその記憶は少女が見定めるより早く頭の中から消え去ってしまったから、少女は瓶から漂った匂いの正体を突き止めることができなかった。
どの小瓶の匂いよりも馴染み深いように思えるのに、何だかよくわからない匂い。
柔らかく、ほんのりとした、どこか心の浮かれるような匂い、とても身近にあったような、けれどもいつのまにか何処かへ行ってしまったような匂い、少女にはその匂いが何なのか、どうしても分からなかった。
少女は老人を見上げて、首を横に振った。
老人は微笑みながら、少女に答えを告げた。
「それはね、春の匂い…」





「私はね、匂売りなんだよ」老人は言った。
「この世の中にある、いろんな物から、少しだけ空気を分けてもらって、瓶に詰める。それをこうして持ち歩いて、欲しがる人に渡していく、それが匂売りの仕事なんだ」
「変なの。においを欲しがるなんて」首をかしげて、少女は言う。
「君は、ほしくないかい?」
「うん。あたしなら、やっぱり本当のものがほしいな。においなんて貰ってもしょうがないもの」
「そうだね、ほんとにそうだ」匂売りの老人はからからと笑った。
「でもね、本当のものはいつも手に入るとは限らない。だから、それを手に入れることのできない人たちの中には、私たちの元を訪れる人もいる。そこにない何かを自分の近くに感じるために…」
「でも…匂いってすぐに消えちゃうじゃない。ちょっと吸い込んで、それで終わりでしょう?」
「そう、一瞬だ。けれども、その一瞬はとても多くのものを私たちに伝えてくれる…」
 そう言うと、老人は軽く目をつむって、静かに息を吸い込んだ。それから、「真似してごらん」と少女に言った。
 老人がするように、少女も目をつむって、息を吸い込んだ。
「夏の夕暮れの匂いだ。」老人は言った。「私たちがこうして出会うずっと前から、私たちを包んでいた匂いだよ。だけど、君は今までその匂いに気づかなかっただろう?そんな風に、私たちの周りには、いつも何かの匂いが漂っているけれど、それはほんの微かなもので、私たちがそれに気づくことはほとんどないんだ。でも、そんな微かなものだからなのだろうね。また来年の夏が来て、君がこの夕暮れの匂いに触れるならば、君はきっと今日のことを思いだすことだろう…」
「どうして?」くりくりとした目で老人を見つめて少女が言う。
「私たちの周りにある匂いは、私たちの記憶と溶け合っているからさ。そう…」
老人はまた軽く目をつむった。「例えば…」
「君はさっき春の匂いを吸って、君自身の春の思い出を思い出しただろう? そんな風に、かつて私たちを包んでいた匂いは、それと触れ合う一瞬のうちに私たちの過去を呼び起こしてくれる。」
「それが大事なこと?」
「そうとも、過去はすぐに私たちの元から消え去ってしまうからね。その忘却に抗うために、私たちは思い出を残そうとする。けれども、思い出はいつも過去の内のほんの少ししかとどめることができない。ある景色、ある音色、ある言葉、ある印象、それだけだ。だから、本当に過去を蘇らせるものがあるならば、それは思い出の中にないものだけなんだ。過去の片隅にあったものだけが、思い出が捨て去ったものだけが、過去を私たちに送り届けることができる…」
 君にはまだわからないだろう、と、きょとんとした顔をして、老人を見上げている少女に向かって微笑みながら、老人は言い添えた。
 それから、老人は話を変えて、匂売りについてたくさんのことを少女に聞かせてやった。世界中に彼と同じ匂売りがいて、匂いを届けて回っているのだということ。匂売りは、どんなものの匂いでも集めることができるということ。それから、少女の知らない色んな匂いのこと、例えば遠い彼方の赤い海の匂い、深い森の奥に咲く秘密の花の匂い、砂漠の王女さまが王様に与えたという香水の匂い、生命をもって動き出したという木組みの人形の匂い…匂売りが物語る一つ一つの匂いの話に、少女は思いを馳せていった。



 夕暮れの空を夜の暗闇が染めてゆき、夏の日永も西の地平線にわずかな茜色を残して、すっかり暮れ果てた。
「さあ、もうそろそろ家にお帰り、日が暮れるよ」
 老人は少女に言った。すると、嬉しそうに老人の話に耳を傾けていた少女の顔が、俄かに曇って、影が差した。少女は黙りこくったまま俯くと、やがてしゃくり上げながら、泣き始めた。
 老人は少女のもとにかがみこんで、そっと背中に手をあてながら、少女に問いかけた。ぽろぽろとあふれてくる涙を手で拭いながら、少女は老人の言葉に、首を振ったりうなずいたりして答えた。
 昼間の暑気を運び去る涼やかな風が二人の間を抜けていった。
 老人はやがて立ち上がって、荷台に手をかけた。そしてその中からまた一つ、ガラス瓶を取り出すと少女の元に寄り添って、語り掛けた。少女は嗚咽をこらえながら、その言葉を静かに聞いた。
「君の身には―耐えられないほどつらいことがたくさん起こる。けれども君はたった一人で、それに耐えている。君はとっても、えらい子だ。だから、私は君に素敵な贈り物をしよう」
 そういうと、老人は少女の前に手を広げてみせた。老人の手の平には、色のない透明なガラスでできた瓶が載せられていた。
「これは、私たちの持つ瓶の中でも特別なものなんだ。この中には、世界で最も貴重なものの匂いが入っている。私は君にこれをあげよう。でもね、いいかい、今開けてはいけないよ。どの瓶も、ただ一度しか使うことができない、だから本当に望む時にそれを開けるんだ」
老人はゆっくりとした口調のまま先を続けた。
「それにね、この瓶を開ける者はある約束を守らなければいけない。それは、長い時間を置くことだ。長い年月を隔てれば隔てる程、この匂いはその人にとって素晴らしいものになるんだ」
 少女は泣きはらした瞳に不安げな眼差しを浮かべて老人の方を見つめている。少女には老人の語りかけることの意味がほとんどわからないようだった。老人は少女の視線を優しく迎えて微笑みながら、こう言った。
「そうだ。それでは、こうしよう。長い長い時間が経った後、君にとってこの匂いが本当に素晴らしいものになったその時に、私は君の元にこの瓶を届けよう。多分、その頃にはきっと、君は今日の日のことをすっかり忘れてしまっているだろう。でも、私は決して忘れない、約束する、必ず届けると。君はいい子だから、それまでちゃんと待っていられるだろう?きっと素敵な贈り物になる。私が保証するよ…だから今日は、涙を拭いて、お父さんの所に帰るんだ。いいね…?」

 老人は少女の頭をそっとなでてから、繰り返した。

「約束する。必ず届けると、約束だよ―」




 陽だまりの庭の、籐椅子に腰掛けた老婆の元に届けられた小包には、小さなガラス瓶が入っていた。それは、空のガラス瓶だった。しかし、そのガラス瓶を開けた途端、老婆の脳裏にある光景がまざまざと浮かび上がってきた。それは、幼い頃、父と共に暮らした六畳間の光景だった。彼女はそこで、実に多くのことを父から教わったのだった。瓶の中からあふれ出した、あの黴だらけの梁や漆喰の匂いは、あの畳と消毒薬の匂いは、そして少女の傍にいつもいた父の匂いは、長い時を超えて六畳間の日々と陽だまりの老婆を結び合わせた。老婆は、ただの一瞬の間、その記憶の中に戻った。それは、彼女の生涯の中で最も幸福な時間だった。

 しかし、老婆は長い一生の中で、匂売りとの出会いも、六畳間での父との日々も、二度と思い出すことはなかった。何故だろう?それが父の死ぬ僅か前の悲しい記憶だったからだろうか?彼女は、それから間も無く、長く険しい人生の旅に赴くことになった。だから、辛い記憶が彼女の心を染め上げて、いつしかわずかばかりの幸福な記憶が埋もれていくことになったのだろう。あんまり長く、彼女はそのことを忘れていた。

 匂売りはこう言っていた。「長い年月を隔てれば隔てるほど、この匂いはその人にとって素晴らしいものになる」と。確かに、そうだった。彼女が生涯の中で一度もその幸福な日々を思い出すことがなかったからこそ、記憶は感傷に染められることなく手付かずのまま残り、隔てた時間の分だけその邂逅はたとえしもない喜びを彼女の胸の内に呼び起こしたのである。しかし、それが何だと言うのだろうか?彼女の味わった生涯の長い苦しみが、ただ一瞬味わった匂いと、その匂いのもたらした幼年時代の最も幸福な日々の幻によって、贖われるなどということがあるのだろうか?私には―わからない。

 それに、陽だまりの庭の、籐椅子の上でのことである。そこに腰掛けた老婆が、久しく忘れていた温かな涙を瞳に湛えながら、幸福そうに微笑んでいたとしても、誰がそれに気づくことだろうか?
 だから、やはり、何一つ変わることのない、五月晴れの一日である。語るべきことなど何もないのだ。それ故に私はもう、この物語を後にすることとしよう、老婆一人を籐椅子に残して―


改作ドラえもん『空気中継衛星』完


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