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『珠のような』


あらすじ:あるとも知れぬ、珠のような…


「あなたはどうして、私のことを好きになったの?」
春の雨のような彼女の黒髪を梳く男の手にぞっとして、梨砂は男に尋ねた。
言葉につまる男の返事を待たずに、続けて言った。
「教えてあげましょう」
「私が、みんなに愛されているから、私と一緒にいるとみんなに羨ましがられるから」
「だから、誰も私を愛していないなら、あなたの綺麗な装飾品でなくなるなら、あなたはきっとわたしを捨てるでしょう」
 そして、呆然として、彼女の髪に虫の抜け殻のように引っ掛かっている男の手を振り払うと、彼女はその場を後にした。彼女が男に会うことはもうなかった。


「あなたはどうして、私のことを好きになったの?」
梨砂はまた男に問いかける。
「教えてあげましょう」
「私が、裕福な家の娘だから」
「だから、私が裕福な家の生まれでないのなら、あなたはきっとわたしを捨てるでしょう」
 彼女が男に会うことはもうなかった。それだけではない、彼女は自分の家を後にした。彼女が家に戻ることはもうなかった。


「あなたはどうして、私のことを好きになったの?」
梨砂は名前のない梨砂になって、街を流れる歌い手だった。
そして、また男に問いかける。
男は、彼女の方を向かぬまま、軽い口調のまま言った。
「どうして…って、梨砂ぐらい素晴らしい歌声のはいないよ。初めて見た時から、俺には梨砂しかいないって思ったんだ」
「そう…では、私の声が枯れたならば、醜い声であなたに囁きかけるならば、あなたはきっとわたしを捨てるでしょう」
 消える程の小さな声で彼女が呟いたのに、男は気づかなかった。男が寝静まってから、彼女はそっと男の家を後にした。彼女が男に会うことはもうなかった。


「あなたはどうして、私のことを好きになったの?」
梨砂は男と暮らして幸せだった。しかし幸せであると思うたびに、男に笑いかける自分を見るたびに、胸の奥に、暗く重たい影が兆すのを感じていた。その影がとても恐かった。けれども、ある日とうとう耐えられなくなって、尋ねたのだ。
男は笑いながら言う。
「決まってるじゃないか。梨砂はいつも笑っていて、とても優しいから、一緒にいると幸せな気持ちになれるんだ」


ああ…!それでは…!


 それから、梨砂は黙しがちに、塞ぎ込んで日を過ごすことが多くなった。男は言葉を尽くして、梨砂に語りかけた。しかし、男がそうするたびに、梨砂はますます深く、暗い影の中に沈み込んでいくのだった。


ある日、男が許しを乞うように言うのを、梨砂も許しを乞うように聞いた。
「梨砂…!梨砂…!君には何も信じることができない、だから君はいつも怖がって、苦しんでいる。だけど、どうか僕の言葉を信じてくれ…」
男は梨沙の瞳を深く覗き込むようにして言った。
「君の瞳には、確かな君の心が映っている。淡く、脆い、そしてとても純真な、梨砂だけの心だよ。それだけは変わらない。僕はずっと君の瞳が君の純真な心を映して輝いているのが好きなんだ。ずっと変わらないよ…お願いだ、どうか信じてくれ…!」
 純真な心?梨砂はひくひくと笑いながら涙を流して、部屋の中に駆け込んだ。
 その日以来、梨砂は獣のように、食べ物を貪り喰らった。肥えた脂肪が体を覆い、顔を覆い、梨砂の瞳はその中に埋もれていった。そして時折、男の前に詰め寄ると、挑むように、自分の醜さを見せつけるように、男に視線を投げつけるのだった。男は遂に耐えられなくなって、彼女の元を後にした。男が彼女に会うことはもうなかった。






私が綺麗な装飾品でないならば
私が裕福な家の生まれでないならば
私が澄んだ歌声を失うならば
私があなたに優しく笑いかけるのでないならば
私の心が純真でないならば



 わたしを捨てるでしょう、わたしを捨てるでしょう。梨砂は、彼女を包む珠のような孤独の中で、寄る辺なく、繰り返している。そう呟くごとに、彼女は、自分の持ち物を一つずつ捨てていった。まるで、捨て去ることのできないものがあるかのように、それを愛してくれと願うように。そうして空しくなっていく自分の姿を、彼女はぼんやりと見つめている。




珠のような 完

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