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好きの壁、嫌いの海

思えば僕は失恋というものをしたことがない
嫌味に聞こえるかもしれないが本当だ

大好きな曲にこんな寂しいフレーズがある


私の恋は いつも私から
始めるのも 終えるのだって
好きだったけど 冷めてしまった
仕方ないね 仕方ないわ
こんな時間はいつか終わる
始めた日から分かってたから

ハンバートハンバート「恋の顛末」


感覚の違いは少しあるものの、この曲を初めて聴いた時から引き込まれた

まさにこういった感じで自分で初めて自分で終えてしまう
つまり、身勝手なのだ

ハンバートハンバートの歌詞との感覚の違いは「冷める」というフレーズ
自分の現実に即した言い方に換言すると「もう二度と人間として分かり合えない」という感覚

自分はこんなにも全身全霊であなたのことを分かろうとしているのに、こんなにも私の心と逆のことをするのですね

自分はこんなにも全身全霊であなたのことを分かろうとしているのに、あなたの心はこんなにも逆の動きをするのですね

私の心はどうして思い通りあなたを想う方向に動かないのか


これが嫌いの海
この海は暗くて深くて、一度沈むと帰ってこれない
世界一周のクルーズ船から突き落とされて、深夜の太平洋の真ん中で1人ぼっち浮かんでるみたいな
特に僕は自分の殻に閉じこもってしまい極端に視野が狭くなってしまうことがある
そういう時はこの海に深く深く潜り込んで、息をすることも忘れてしまう



必ず自分が嫌になってしまい人に迷惑をかける
人を巻き込みつつ自分で終わらせる
こんなんやったらおらん方がマシや
仮にも愛情をくれた人を無下にする行為


中学時代から遡ると、初めてお付き合いした人は、フェンス越しの隣のコートでテニスをしていた方
テニスコート横の駐車場で想いを伝えて始まった

中学生なので冷やかされるのが嫌すぎて、一緒に帰ったりするのもコソコソ
Yahoo!メールでやり取りしてた胸キュン

ただある日事件は起きた
クラスの班長会議の時、放課後残った班長数名で適当な机をくっつけて会議した
その時にその子の机をたまたま使うことになり、よっこいしょと持ち上げると本が落ちた
BLの本だった
今でこそサブカルチャーへの許容度が高まっているけど、その頃はまだそこまでで、
ましてや思春期に男同士のラブの小説は刺激が強すぎた

これで嫌いの海にダイブしてしまいあえなく自然消滅
若すぎたとはいえ、もう物の分別はつく年齢
曖昧なまま放置して逃げてしまったことを今でも謝りたいと思うし後悔している


高校時代に付き合った人とは最終的に結婚した
文化祭の出し物の時代劇で恋人役に出来レースを組んでもらった

クラスの男女が異様に仲が悪かったので、それを解決したいとの名目で彼女と夕方のA教室(選択制の授業をする、普段は誰もいない教室)で相談をした
彼女が入った生徒会に自分も立候補した

あっという間に受験生となり、もうそんなことも言ってられないな、と区切りをつけるべく文化祭の打ち上げで想いを伝えてみるとOKだった
忘れてしまったけど、あの頃はきっと飛び上がる程嬉しかっただろう

それから数年後、また嫌いの海に入った
大学で入った軽音はとても楽しく、ずっとこの仲間と一緒にいたいなと思った
そうなると口うるさい彼女がその妨げになっていく


女の子は我儘だ
よくわからない生き物だ

くるり「男の子と女の子」



これは本当に共感する
本当に分からない
今でも

途中から完全に上下関係ができていた
私は合っていて、僕は間違っている
いつもこの強制的でひっくり返せないロジックが底を流れていた
反論は無視されるか流された

中途半端な覚悟で結婚した
しなければいけないと思って
自分のタイミングではなかったが、若い頃を貰ったという負い目とプレッシャーと自分がこれからこれ以上の人に出会える自信がなく折れた

そして決定的な出来事が起きてあえなく離婚~

自分としては一生懸命相手に合わせ、理解をしようと努めたつもりだった
結果できてないから、結局努力が不足していたということなのだけれど
独りよがりだった
優しくなかった

失恋をしない、と言ったが、上記の理由の他にもう一つある
失恋には二つあって、
①想いを告白したが、良い返事がもらえなかった
②告白は成功し付き合ったがフラれた
この入口と出口の部分を自分勝手にやってしまっているから失恋しない

まさに冒頭の歌詞にあるように、自分で初めて自分で回収してしまう

入口の部分にも難があって、異様に自尊心の低い自分は、仮に好意的な行動があったとしても入れることができない
これが好きの壁
自尊心の高い人なら「ありがとう」って受け入れられるものを独りよがりの自分に悪いほうの捉え方をして相手を困らせる



そもそも人と一緒にいると、職場だろうが友達だろうが、例え家族でも自分の中でわんわんなる架空の声を止めることができない
とめどなく他人の声を妄想してしまい、勝手に頭の中で鳴らし、防御のために殻に閉じこもってしまう
世間の人たちはどうやって2人以上で暮らしているのだ
みんなそこまで苦痛そうには見えないけど

家が一番の癒しの場、という言葉をテレビで見たことがある
複数人で暮らしていた時にこのフレーズを見聞きしたとき衝撃だった
ああ普通はそうなんだって
ストロングゼロ缶を二本飲まないと侵入できないところが家じゃないんだなって
自分がきっと普通じゃないんだなって

好きの壁は内側が自尊心で、外側はその人への情でできている
自尊心の壁を超えるのは容易ではなくて、でも超えたらその人への情の壁に阻まれてまた戻ってくることもなかなか難しい

要は好きになりにくく、一度壁を超えてしまえば戻るのも困難
両方に行くことが困難なのです。

偉そうすぎる言い方を許容していただけるなら、今僕と一緒にいる友達はその壁を超えた方なのでとてもすごい
極端な性格なので、好きな人は好きやし嫌な人はとことん嫌
友達は少ないかもしれないが長くて深い付き合いをしている
自分のこと全然好きじゃない癖が他人にも発揮されて、減点方式で人のことを見る性格の悪さであり、点数が尽きたらもう深くかかわることはなくなる
表面的にだけでもみんなと仲良くできる人は本当にすごい

そのうえ、人にランク付けする
自分の今いる世界で自分はどの辺にいて(大概ピラミッドの下の方にいる)この人はとても高いとこにいるとか、自分よりも下だぞとか、同じくらいだなとか

そうして勝手なヒエラルキーをつけて自分と異なる身分の人には深くかかわらない
好きの壁はここにも登場する
例え容姿の優れる人でも心を溶かされることはない
一緒にいたら息が詰まる
お互いにいたわりあえると思えないと一緒にいる意味ない


散文を書きに書き荒らしたが、結局僕は1人でいないといけない、そういう気持ちになることがある
人に迷惑をかけずに、死なない程度のそこそこの給料を貰い、凪の日々を送るのだ
こういった理想を掲げるも、自分の現状の強さとの間のギャップが大きすぎてそんなことは到底できる芸当ではないことを思って、休日のショッピングセンターの真ん中で涙があふれてくる時がある
自分にはもう、周りの人のような、誰か一緒に幸せな時間を築くことは不可能なのだろうか、とか
良い方が現れたとして、最初は楽しくても、価値観を擦り合わせる過程を経て、お互いの嫌な部分が見えだし、飽き、諍いが増え、違う未来に目移りし、色んな声が頭に響くようになり、1人になりたいと願い、また同じように終わっていく連鎖する妄想が走る

じゃあどうしたらいいんだよ

もう二度死んだ人生だから過度に落ち込んだり絶望することは少なくなった
少なくなったというか少なくなるように仕向けている
勉強が無かったらきっと絶望しっぱなしお医者かかりっぱなしだった

課題 :お互いを想い合う心の醸成
対応策:相手より幸せになろうと考えてはいけない。相手に期待してはいけない。でも自分を隠しすぎてもパンクするので、素直な気持ちをしっかり話す。諦めない。自ら能動的に相手のことを幸せにする策を次々と、変化に対応しつつ継続的に実施する。


手遅れになる前に
自暴自棄になっていた頃はもうだめだといって現実逃避をしていたが
30代はまだよくっても、40代、50代・・・と残念ながら人生は続いていく
そこで孤独はキツイよお兄さん
親も亡くなったりしたらいよいよ
悪い未来は簡単に想像できるので後悔なく生きていきたい
ましてやこないだ大腸にアデノーマ(ガンの赤ちゃん)が発見されたこともあって、本当はもっともっと短いかもしれん
最期の時に後悔ないように、なんてことは無理だと思うけど、後悔が少ないようにはしたい
一生懸命やったけどこれくらいがいっぱいだったなーって


今度に備えてもっと強くならなければならない
優しくなりーたいー
強くなりーたい

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