君が差し出す偏光レンズから音が聞こえる(拾)

 朝六時、もう慣れ親しんできた酷い音が部屋に鳴り響いている。慣れるというのは怖いもので、自分の朝の生活が壊されて早二週間……ほぼ毎日のように朝不意に鳴らされる玄関のチャイムは所謂 “ いつも通り “ になりつつあった。

「あれ? もう起きてた」
そう言って勝手に我が家の玄関を開けて顔を覗かせた女はいつにも増して妙に楽しそうな笑顔を浮かべていた。
「今日は変な胸騒ぎ? みたいなのを感じて五時半頃に目が覚めたから鍵を開けておいたんだよ……最近ドアノブガチャガチャやってくる日があったから」
「お察しが宜しいようで」
女は慣れた感じで家に上がり込むと、大きなキャリーケースをコロコロ転がして僕の方へ近寄ってきた。
「また大層なお荷物で」
「この中に君の着替えとか色々入れて」
そう言ってキャリーケースを開くと半分には女の荷物であろうものがパッキングされていた。
「どういう事……と聞いても仕方がないんだろうね。わかったよ」
「お察しが宜しいようで」
「どこに行くのか知らないけど、僕は仕事……」
「今君入院してるから。事故で」
「ああ……なるほど」
「本当に察しが宜しいようで」
自分がこういうやりとりに慣れてきてしまったのもあるが、女も女でもう僕が歯向かわなくなったのを見越しての行動を取っているようにも思える。
会社の上司や同僚への言い訳を後から考えるのは僕なのに……迷惑をかけて本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
女が言うには大した怪我はないが、頭を打っているから検査をしないとならないと昨日の夜、僕が退社して一時間後まだ残業している上司がいる事をチェックした上で身内のふりをして電話をかけたらしい。
「で……こんな大荷物でどこに行くの?」
「良い所」
「良い所……良い所ね」
「君、変わったよね」
「変わったというか……仕方がないというか」
「楽しいでしょ」
「大変だよ」
「素直じゃないね。本当は楽しい癖に」
そう言って僕の頬をつねる女は意地悪な笑顔を浮かべていた。
僕は内心凄く楽しかったんだと思うし、ドキドキというかワクワクというか、妙に興奮していたのは嘘じゃない。でもここで素直に楽しいと、ワクワクしていると、そう口に出すのが何故だか怖くて、口を閉ざしていた。


 僕達は七時十分の電車に乗り込み、街を後にした。
この街を出るのは就職をしてから初めての事で、電車に乗る事も普段の生活ではもう考えられなかったので見る景色、見る景色、全てが新鮮だった。
毎日同じ生活を続けてきた僕にとって今している行動は刺激が強過ぎるようにも感じるが、ただただ女に付いて行けば大丈夫で、女の話を聞いて返答すれば大丈夫で、もう後戻り出来ないような知らない場所にいるのに、何だかとても安心感があった。
もしかしたらこのままどこか遠くで、知っている人も何もかもなくなって、僕は新しい生活を始めるのだろうか? とも考えたが流石にそれは話が飛躍し過ぎかな……と思ったら口元がニヤついていた。
「何笑ってんの? ちょっとキモい」
「いや、なんでもないよ……笑ってないよ」
「まあ良いけど。朝ご飯、何食べたい?」
「……えっと」
「──パンケーキね!」
聞く意味あったのかよ……と口に出そうかと思ったが内心凄く心地が良いのを感じしっかり噛み締めた。僕は今までとは違う知らない世界に来たんだ。

「美味しいパンケーキのお店があるの?」
「美味しいかは知らないけど、美味しそうだから行くんだよ」


“ つづく “


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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