君が差し出す偏光レンズから音が聞こえる(七)

 そう。あれは雲一つない晴れた日……けれども風がもの凄く強い日で、昨日あった嫌な事も、日頃の鬱憤も全部全部吹っ飛ばしてくれそうな朝で。
逆に言えばもうどうだって良くて、この世界なんて終わってしまえば良いのに、こんな退屈で、毎日毎日面白くない事の繰り替えしで、毎日毎日作り笑顔で取り繕って、セクハラもパワハラも、全部全部これから生きて行く為だ、私の為だ、涙なんて流さないんだ……って決めた全てを捨ててしまいたくなった日だ。
そして、今日私は死ぬかもしれない。もう疲れちゃった。今日が昨日と同じように流れて、いつも通りの一日で、いつも通りフラフラになって家に帰ってきたら、私は死のう。
この世界はつまらなかった。生きるに値しなかった。
そう割り切って、沢山の薬を飲んで、手首をズタズタに切り裂いて、私に嫌な思いをさせた人間全員の名前を壁に書き殴って、私はこの世界にサヨナラをする。
と決めて家を出た日だ。

 頭がクラクラするような朝日、昨夜家に帰ってきてからも終わらなかった仕事を深夜まで続けていたせいで朝鏡に写った私の顔は酷いものだった。
プリントアウトした沢山の書類をバインダーで閉じて、紙袋いっぱいに詰め込んで、こんなに重たい荷物になって、こんなに沢山頑張って、それでもきっと認められない。それは私が女だから。
毎日変わらない日々、出社してから退勤するまで上司のご機嫌取り。私の仕事には愚痴や文句が山盛り。すれ違いざまにお尻を叩かれたり、今日も可愛いねえなんて……吐き気がする。通い慣れた道、いつもの道。
でも今日の私は少し違う。私は今日死ぬかもしれないのだから。

 今まで自殺なんて考えた事はなかった。辛いな、苦しいな、なんて事は沢山あった。でもそんなのは当たり前だから。人生はそういう事もある。普通の事。
私は昔から恵まれていた方だ。毎年夏休みは海外旅行に行くような家庭で産まれ、自分で言うのもあれだが容姿も悪くはないからずっとチヤホヤされて生きてきた。
勉強もスポーツも人より少し良くできた方だし、友達からの信頼も厚かったと思う。大学を卒業して今の会社に就職して……それから……
どうしてこうなっちゃたんだろう。
私は私として生きてきた。今までもずっと、だから多分これからも私は私として生きて行く。私って……どんなだったっけ。私は私を生きれている?
沢山の事を我慢して、言われた事を丁寧にこなして、私ってずっとこうだったっけ? 私はこれで良いんだっけ? 考えても仕方ない。私はきっと今の私。私はもうこの私を上手くやり遂げるしかない。今日死ぬかもしれない私を。
そんな事を考えていた時、突然強い風が吹いて私の手にしていた紙袋の持ち手が一本切れて、その衝撃で袋が破れた。

「……最悪」
バインダーに閉じていなかったバラの書類は風で舞い上がり、道に散らばった。破れた紙袋だけを握る右手、朝から運がない事への苛立ちの中、何故か恥ずかしさも感じて私はその場にへたり込んだ。
「本当に最悪……」
這い蹲って一枚一枚散らばった書類を集めている時、近寄ってくる靴が見えた。手伝ってくれるのかな? と思い目線を上げると一人の男と目が合った。
しかし彼はそのまま左に身体を方向転換すると真っ直ぐ歩いて行ってしまった。
意味がわからなかった。見えてないの? いや、手伝うのが当たり前じゃないんだろうけれど、目が合ってその対応なの? 何考えてるの?
「変な人だな」
妙な気分だった。思いがけず小さな笑いが腹の底から溢れた。
アレがきっとあの人の普通なんだ。
私の普通ってなんだっけ?……私は私の人生を、私らしく生きていきたい。
茫然と見つめていた男の背中が見えなくなって、もう全部どうでも良くなって、私は振り返って家に帰る事にした。
最悪な事があったって、最悪と決めるのは私次第。我慢するのも、取り繕うのも、私次第。
雲一つない空がとても大きくて、強い風が心地良くて、風に靡く花がとても綺麗だった。

「また会えるかな」


“ つづく “


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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