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フリードリヒ・シラー『シラー戯曲傑作選 ヴィルヘルム・テル』訳者解題(text by 本田博之)

 2021年10月22日、幻戯書房は海外古典文学の翻訳シリーズ「ルリユール叢書」の第17回配本として、フリードリヒ・シラー『シラー戯曲傑作選 ヴィルヘルム・テル』を刊行いたします。フリードリヒ・シラー(Friedrich Schiller 1759–1805)はドイツの劇作家、詩人。雑誌編集者、歴史学者、美学研究者としても活躍した文人です。1781年、戯曲『群盗』が成功を収め、一躍有名になりました。本作品『ヴィルヘルム・テル』は不朽の名史劇として知られる、シラーの戯曲の代表作のひとつです。本作の創作には、文豪ゲーテとの深い結びつきが関係しています。
 以下に公開するのは、訳者・本田博之さんによる「訳者解題」の一節です。

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フリードリヒ・シラー『シラー戯曲傑作選 ヴィルヘルム・テル』訳者解題(text by 本田博之)


 フリードリヒ・シラーは、1759年11月10日にシュトゥットガルト近郊の田舎街マールバッハで生まれ、劇作家、詩人、雑誌編集者、歴史学者、美学研究者として活動しながら、晩年には貴族に列せられ、1805年5月9日にワイマールで歿した。45歳だった。

 マールバッハは、現在のバーデン゠ヴュルテンベルク州の州都シュトゥットガルトから電車ですぐのとこにある、ネッカー川が流れる小さいながらも雰囲気の良い街である。オレンジの屋根の家々を見て思うのは、「可愛い街」だ。シュトゥットガルトのあたりには、そのような街ないしは村がいくつかあり、どこも心地良い土地で、大学街として有名なテュービンゲンも同じネッカー河畔にある。この地方は、シュヴァーベン地方と呼ばれ、方言のなまりがきつい地方としても有名である。訳者自身もテュービンゲンで1か月過ごしたことがあるが、大学の語学講座に「外国語としてのシュヴァーベン語」という授業があったことを記憶している。それほどなまりのきつい方言だということだ。シラーの若い頃は朗読が下手だったという逸話があるが、それもシュヴァーベンなまりのせいだったようである。そんなシュヴァーベン地方ではあるが、シラー、ヘルダーリン、シェリング、ヘーゲル、ハイデガーなど、有名な詩人や思想家が多く生まれている。ヴュルテンベルクが、教育に力を入れていたおかげかもしれない。他方ワイマールは、日本でもその名前は有名であるが、やはりこぢんまりとした街である。当時はヘルダー、ヴィーラント、ゲーテらが住み、宮廷と国民劇場がある文化的な都市であった。

 シラーは、ドイツ(神聖ローマ帝国)内においては、シュトゥットガルト近辺からマンハイム、ライプツィヒ、ドレスデン、ワイマール、イェーナなどへは旅をし、移住したことはあるが、度重なる病苦のせいもあり、国外へ出たことはない。『フィエスコの反乱』、『視霊者』、『潜水者』の舞台であるイタリアも海も実際には見たことがなく、もちろん、『ヴィルヘルム・テル』のスイスも訪れたことはないのだ。それにもかかわらず、シラーの情景描写は素晴らしいと評価されている。そうした情景描写の素晴らしさは、ゲーテに負うところが大きい。

 シラーとゲーテが意気投合したのは、1794年であったが、当時シラーは大学のあるイェーナに住み、ゲーテはワイマールに住んでいた。両者は、親しくなってからの10年間で約千通の往復書簡を交わした。イェーナとワイマールは、22キロメートルしか離れていないので、手紙は朝に出せば、晩には相手のもとに届いたようである。さらに、二人の関係はそれだけに留まらず、頻繁にゲーテがイェーナのシラーを訪ねており、シラーも体調が良いときはゲーテのもとに滞在しながら、芸術や哲学、そして自分たちの詩作について話し合っていたのである。晩年にはシラーもワイマールに住むようになり、毎日のように一緒にいても煩わしくない、むしろ片時も離れたくない、そんな態度が両者の書簡からうかがえる。現代のわれわれが考えるところの友情関係以上の深いつながりがあったように思われる。

『ヴィルヘルム・テル』が完成(1804年2月)し、出版(1804年10月)された後、7か月でシラーはこの世を去っている。死因は急性肺炎であるが、23歳のときにかかったマラリアと当時借金返済のために無理をして身体を酷使したことが、その後の人生において絶えずシラーを病苦が襲った原因であると考えられる。ゲーテは80歳過ぎまで生きていたので、45歳というのは、当時としても短命であったと言えよう。

戯曲『ヴィルヘルム・テル』の位置づけと解説
 シラーは、その短い生涯において全部で9つの戯曲を完成させた。三十年戦争に取材した『ヴァレンシュタイン』三部作は全11幕の大作であり、古代ギリシア悲劇を模して合唱団の使用を試みた『メッシーナの花嫁』が4幕であるのを除けば、すべて5幕からなる戯曲である。シラーの本領は、劇作品にもっともよく発揮されていると言われるが、『群盗』、『フィエスコの反乱』、『たくらみと恋』は文学潮流で言えば疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドラング)期にあたる青年期の戯曲であり、『ドン・カルロス』は成熟期への過渡期の、そして『ヴァレンシュタイン』、『オルレアンの乙女』、『メアリー・ステュアート』、『メッシーナの花嫁』、『ヴィルヘルム・テル』が成熟期の作品とみなされている。

 これらシラーの戯曲世界においてドイツが舞台となっているのは、『群盗』、『たくらみと恋』、そして『ヴァレンシュタイン』のわずか3つだけである。その他の6作は、劇作家自身が一度も見たこともない世界を舞台としている。ジュノヴァの貴族『フィエスコの反乱』、スペインのフェリペ二世の王太子『ドン・カルロス』、イギリスのエリザベス一世とスコットランド女王メアリーの確執とその悲劇を描いた『メアリー・ステュアート』、フランス百年戦争時代のジャンヌ・ダルクの物語『オルレアンの乙女』、地中海のシチリア島を舞台とする『メッシーナの花嫁』、そしてアルプスのスイス独立の契機を描いた『ヴィルヘルム・テル』である。また、死の直前までシラーが専念していた未完の『デメトリウス』は、ロシアに取材した戯曲となる予定であった。

 そして、シラーの戯曲は、『ドン・カルロス』にしても『ヴァレンシュタイン』にしても、そのほとんどは歴史的素材によるものであり、実際にこの劇作家は、『オランダ独立史』と『三十年戦争史』、その他いくつかの論文を著した歴史家でもあった。また、シラーは医者でもあったため、彼の興味は自然よりも人間に向けられていた。カール学院時代にアーベルの講義において心理学的な例として挙げられたシェイクスピアの『オセロ』に魅せられてから、医学論文において心理学的なアプローチをしているのも、人間の行動を通して世界を理解する態度が彼の根本的な性格だったからであり、劇作家としての霊感を刺激するような歴史的人物をシラーは常に求めていたのである。

 そのような劇作家シラーによる『ヴィルヘルム・テル』は、成熟した想像力をもって、歴史および伝説に取材した古典期の傑作である。ギリシア悲劇に見られるような、高貴な身分の者が堕ちていく悲劇でも、貴族と市民階級の男女の報われない恋を描く悲劇でもない。むしろ、悪者の代官が退治され、胸のつかえが解消されたような爽快な気分を味わえる戯曲である。用いられている文体は、シェイクスピア(William Shakespeare 1564 ‐1616)が好んで使った、弱強五歩格のブランクヴァースであり、基本的には脚韻はないが、一行のうちに弱強のリズムが5回繰り返されている。また『ヴィルヘルム・テル』の他の戯曲にない特徴を挙げるとすれば、登場人物が非常に多いことである。

 完成した最後の戯曲『ヴィルヘルム・テル』は、スイスを舞台としている。シラーが最初にスイスとテルに触れたのは、1789年、妻となるシャルロッテとの書簡のやり取りにおいてであった。シャルロッテがミュラー(Johannes von Müller 1752‐1809)の『スイス史 Geschichten Schweizerischer Eidgenossenschaft』(1786)を読んでいたからである。しかし、その当時シラーは、テル物語にあまり興味を示していなかった。その後、ゲーテが1797年7月からスイス旅行をした際、フィーアヴァルトシュテッテ湖とその周辺を訪れ、

直接の観察を通して、自然史的、地理学的、経済的、政治的な事情を見ましたが、さらに古い年代記を通して過去の時代も身近に引き寄せ、さらに勤勉なスイス人たちの手による論文も多く参照しました。それらは特にこのスイスという国が限定された存在様式を有しているだけに、実に面白い談話のネタを与えてくれます。〔…〕ところで、こうした散文的なものの中から、詩的な素材が一つ浮かび上がり、〔…〕「テル」の物語が叙事詩的に扱えることを私はほぼ確信するに至りました。(1797年10月14日付書簡)

 とシラーに報告している。それに対しシラーは、「ヴィルヘルム・テルのアイディアはたいへん素晴らしく思われます」と述べ、そのスイスという限定された地域性と歴史的な制約性はあるものの、ゲーテの手にかかれば「素材の意味深い狭さから、ありとあらゆる才気にあふれた生の営みが生み出されるでしょう」と言う。また、続けてシラーは、

この素材の場合は、きわめて強い制約を受けつつ、その制約のもとで詩人の力によって心の底から深く感動させられ、ひきつけられるということが起こるでしょう。同時にこの素晴らしい素材からは、逆に、人類全体へと達するような視界が開けており、まるで高い山々の間にさえぎるものがなく遠景が開けていることに似ています。(1797年10月30日付書簡)

 と述べるように、テルという素材の可能性を支持する。それから、1802年2月にシラーは、チューディの『スイス年代記』を読み、3月10日、ゲーテ宛て書簡において『ヴィルヘルム・テル』への関心がますます高まっていることを報告する。その6日後には、出版社のコッタに湖周辺の地図を依頼している。1803年の7月には、ゲーテと散歩しながらテルについて話し、その流れで再度コッタにスイスの山岳地帯についての書物を送ってくれるように依頼する。つまり、本来は、ゲーテ自身がテル伝説を文学にしようと思っていたのであるが、シラーがそれを譲り受けた形になり、実際にスイスの自然と文化を体験したゲーテから直接にさまざまなことを聞き、イメージしたうえで、さらに資料にあたって、そのイメージを確かなものにしていったのである。

 1803年11月30日には、季節のせいで身体が苦しいにもかかわらず、『ヴィルヘルム・テル』は進捗していることを告げる。1804年1月13日、完成した第一幕をゲーテに送り、意見を求める。そして同日付の書簡においてゲーテは、その出来栄えに感心し、翌日の書簡においてシラーは、ゲーテの賛辞に安心した旨を伝えている。1804年2月19日に完成した『ヴィルヘルム・テル』がゲーテに送られ、その2日後にゲーテは、送られてきた素晴らしい戯曲を楽しんだことを伝えている。

 さて、『ヴィルヘルム・テル』第一幕・第一場に登場する舞台フィーアヴァルトシュテッテ湖であるが、「フィーアヴァルトシュテッテ」というドイツ語は、「4つの森林地域」という意味で、シュヴィーツ、ウーリ、ウンターヴァルデン、ルツェルンの4つの地域に接している湖を指している。複雑な形をした湖であるので、言葉では大雑把な位置しか伝えることはできないが、湖の東にシュヴィーツ、その南にウーリ、西にウンターヴァルデン、北にルツェルンが位置している。ルツェルンを除く三州による同盟がスイス独立の基盤となった。「シュヴィーツ」は、現在の「スイス」の語源である。つまり、史実との関連で言えば、『ヴィルヘルム・テル』は、同盟を結び蜂起したスイス三州にまつわる物語である。

「史実との関連」とわざわざ言うのは、今では周知のように、テルという英雄は伝説にすぎず、実在していないからである。クロスボウを用いて百歩も離れた場所から子供の頭の上のリンゴを射ることができたような、さらに船の操縦も巧みで屈強な猟師は、存在していなかったのである。その英雄像は、日本においても、子供の頭の上のリンゴを射る弓の名人の話しとして有名であるが、それもシラーの『ヴィルヘルム・テル』の影響である。ちなみに、訳者が子供の頃に読んだ本の記憶では、アーチェリーのような弓でリンゴを射る姿だったが、シラーの戯曲を読むと、いわゆるボウガンのようなクロスボウであることがわかる。

【目次】

ヴィルヘルム・テル
第一幕
第二幕
第三幕
第四幕
第五幕

   註
   フリードリヒ・シラー[1759–1805]年譜
   訳者解題
【訳者紹介】
本田博之(ほんだ・ひろゆき)
1973年、東京生まれ。上智大学大学院ドイツ文学科博士後期課程満期退学。ドイツ・トリアー大学に留学。現在、上智大学ほか講師。専門はフリードリヒ・シラー。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。本篇はぜひ、『シラー戯曲傑作選  ヴィルヘルム・テル』をご覧ください。