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ジュール・ヴェルヌ『シャーンドル・マーチャーシュ 地中海の冒険 [上・下]』訳者解題

 2023年5月18日、幻戯書房は海外古典文学の翻訳シリーズ「ルリユール叢書」の第30回配本として、ジュール・ヴェルヌ『シャーンドル・マーチャーシュ 地中海の冒険 [上・下]』を刊行いたしました。ジュール・ヴェルヌ(Jules Verne 1828–1905)はフランスの小説家です。1848年に法学部生としてパリに上京後、学位を取得するも代訴人であった父の事務所を継ぐことを拒否、文学修行に励みます。1863年、前年に出会った出版者ピエール゠ジュール・エッツェルの手で、長編第一作となる『気球に乗って五週間』が刊行されます。以後、『地球の中心への旅(地底旅行)』『地球から月へ』『海底二万里』『八十日間世界一周』『神秘の島』等、世界中を舞台とした冒険小説の連作〈驚異の旅〉をエッツェル社から発表、読者を魅了する長編小説を次々に発表。ヴェルヌのこれらの作品群は、SFの先駆けとなったほか、その遊戯的な形式性が20世紀の主流文学にも影響を与えました。
 ジュール・ヴェルヌ『シャーンドル・マーチャーシュ 地中海の冒険』は、『海底二万里』『八十日間世界一周』を凌駕し、ジュール・ヴェルヌの小説シリーズ〈驚異の旅〉の中でも最大級のスケールを誇る大長編の冒険小説です(既訳の邦題『アドリア海の復讐』で知る読者はいるでしょう)。ジュール・ヴェルヌの本作品の原題は『Mathias Sandorf』、フランス語読みでは「マチアス・サンドルフ」では、とお思いの方もいるかもしれません。主人公はハンガリー人であるため(ハンガリー語圏では、日本語人名表記の氏名のように、ファミリーネーム、ファーストネームの順に表記されます。ルリユール叢書の既刊書でハンガリーの作家、レンジェル・メニヘールト『颱風[タイフーン]』の著者名表記も同様です)、「シャーンドル・マーチャーシュ」と正確な人名表記を作品邦題として採用しています。
 以下に公開するのは、ジュール・ヴェルヌ『シャーンドル・マーチャーシュ 地中海の冒険 [上・下]』翻訳者・三枝大修さんによる「訳者解題」の一節です。


『シャーンドル・マーチャーシュ』成立の経緯

 ここからは、主にヴェルヌと編集者エッツェル(Pierre-Jules Hetzel 1814‐86)のあいだで交わされた書簡のやりとりを参照しつつ[★03]、『シャーンドル』成立の経緯を見ていこう。

 地中海を舞台とする作品を書こうという構想がいつ頃からヴェルヌの頭の中に胚胎されたのか、正確なところは分からない。が、その萌芽のようなものはすでに1882年1月9日付のエッツェル宛書簡の中に見出される。まだ納得のいく筋立てができていないことを強調しながらも、ヴェルヌは『地中海一周』というタイトルに言及しているのである。とはいえ、続く1月28日付の書簡では、「地図上で何度も試してみたのですが、この『一周』はさまざまな理由から不可能であり、地中海は別のやり方で扱われねばならないということを理解しました」と述べているから、このときにはすぐに書きはじめることは断念したようだ。

 それから約2年が過ぎようとしていた1883年の12月初旬、ヴェルヌはアレクサンドル・デュマの代表作を引き合いに出しつつ、「強姦も姦通も行き過ぎた情念も描くことなく、われわれの読者のために真の『モンテ゠クリスト』を制作しようとしています」とエッツェルに書き送っている。同じ手紙の末尾では「私の『モンテ゠クリスト』」と言い換えられてもいるのだが、ここで言及されているものこそが、その約1年後に『シャーンドル・マーチャーシュ』として完成し、世に出ることとなる作品である。

 1884年に入り、執筆は急ピッチで進められていく。早くも2月4日付の書簡には、「『地中海』の第一巻は3分の2ができあがっています」という文言が見受けられ、2月15日には第一巻(『シャーンドル』第一部と第二部前半に相当)が「ほぼ完成」している。ちなみに、この時点では本作品はまだ『地中海』(Méditerranée)という仮題で呼ばれており、主人公の名前をタイトルに据えるという方針がほぼ固まるのは九月に入ってからのことである。もっとも、表題からは姿を消すとはいえ、「地中海」そのものを描き尽くすことがこの作品の眼目の一つであることはその後も変わらず、1884年10月30日付の書簡の中でもヴェルヌは次のように述べている。

この小説では、地中海について知るべきことを読者にすべて知ってほしい。だからこそ、沿岸のさまざまな場所に読者を連れていくような筋書きになっているのです。

 ところで、ヴェルヌは1884年の5月半ばから自家用ヨット〈サン゠ミシェル号〉で地中海に旅立ち、『シャーンドル』の舞台となる地域を――アドリア海沿岸までは回れなかったものの――実際に訪れている。後年の作家自身の言によれば、このときは執筆のための「材料を集めながら地中海を散策していた」[★04]のだという。だが、もしそうだとすれば、これはヴェルヌがある特定の小説を書くためにわざわざ遠隔の地まで現地調査におもむいた、ごく珍しい例だということになるだろう。その重要性に鑑みて、以下に旅程を記しておきたい。

 弟のポールとその次男モーリスをともなって、ヴェルヌは5月13日の早朝に生まれ故郷のナントを出発する。19日にスペインのビゴ、22日にポルトガルのリスボン、25日にイギリス領ジブラルタルに立ち寄ったあと、27日に到着したアルジェリアのオランでは、先行していた妻のオノリーヌと合流。そこから一行はアフリカ大陸北岸を東進し、まずは5月30日にアルジェに、ついで6月6日にはフィリップヴィル(現在のスキクダ)に寄港している。6月10日にはボーヌ(現在のアンナバ)に入港。そこからチュニスまでは陸路での移動を選択する。6月14日にチュニスに着くと、さらに近郊のカルタゴを訪問。だが、6月16日から翌日にかけての夜、チュニジアを出てマルタに渡ろうとする航海のあいだに嵐に遭遇し、ヨットが損傷を受けてしまう。マルタの首都ヴァレッタでの船の修理のあと、一行は6月24日にシチリアのシラクサに渡り、翌日にはカターニアを観光。ついで、メッシーナへの寄港を経て、28日にはナポリに渡っている。ポンペイやヴェスヴィオ火山を見てまわり、7月2日にナポリを出ると、翌3日にはローマに到着。ローマでは7月7日に教皇レオ13世に謁見し、ヴェルヌ一行は1時間近く教皇と語らっている。最後は陸路を選択し、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラン、トリノを経由して、7月15日の朝、パリに帰還。合計すると二か月を超える、ヴェルヌにとっては生涯最後の大旅行であった。エッツェルは7月21日付の書簡の中で、ヴェルヌがアミアンの自宅に無事に戻ったことを知り、安堵した旨を伝えている。

 ところで、旅から帰ってきたヴェルヌは、地中海周遊の経験をさっそく『シャーンドル』の執筆に活かしている。フィールドワークの成果が、さまざまな水準で作品の中に観察されるのである。現地を実際に見てきたおかげで精緻な風景描写・風俗描写が可能になった、といったごく穏当な影響ももちろんあるだろうが、それだけではない。とりわけその具体性の強さによって人目を惹くのが、旅行中に出会った実在の人物たちへの直接的・間接的な言及である。

 例えば、『シャーンドル』第三部第四章に描写されている主人公の邸宅の建材は、「一人の技師」が「フィリップヴィルから数キロの位置にあるフィルフィラ」で採掘した大理石であると言われている。そして、作品の本筋とはまったく無関係に見えるこの種の具体的な細部こそが、じつはしばしば作者自身の経験を色濃く反映する、現実と虚構の結節点なのである。事実、ヴェルヌ一行はフィリップヴィルへの寄港時に、現地の技師ジョルジュ・ルシュウール(Georges Lesueur 1834‐1910)の所有する大理石の採石場フィルフィラを見学している。作品中では誰と名指されることのないこの「技師」の背後には、したがって、旅行中に出会ったルシュウールという実在の人物が隠れている――そう考えておいて、まずまちがいはないだろう。

 もう一つ、同様の例として、第四部第六章にさりげなく書きこまれているドラットル神父の名前も挙げておきたい。ヴェルヌ一行は、カルタゴを訪れた際に、まさしくこの「学識豊かな考古学者」にサン゠ルイ礼拝堂を案内してもらっている。名前が明記されていたり伏せられていたりの違いはあるが、以上の二例はいずれも旅行中に世話になった人物へのヴェルヌからの挨拶のようなものだと考えておくのが妥当だろう。

 なお、これらとは別に、作家本人の経験がほぼそのまま『シャーンドル』の主人公のものとして描かれている例も散見される。例えば、行く先々で街の噂となり、ときにはゴシップ狙いの新聞記者につけまわされもするアンテキルト博士。博士のこの姿には、図らずも「セレブ」になってしまった小説家自身の経験が、困惑や驚き、不満とともに少なからず反映されていると見るべきだろう。なにしろ1884年の時点ですでに国際的な人気作家であったヴェルヌは、地中海旅行の最中、どこに寄港してもパーティ攻め、レセプション攻めに遭い、「ぶつくさ文句を言いながら公式訪問をこなしていた」[★05]というのだから。

 また、作品内に転写されている旅行中の出来事のうち、最もインパクトの強いものとして、マルタ島近海での嵐との遭遇を挙げないわけにはいかない。ヴェルヌのサン゠ミシェル号とアンテキルト博士のフェラート号は地理的にもほぼ同じ位置で嵐に襲われており、結果として船が損傷を蒙るという点でもフィクションは現実を忠実になぞっている(第三部第四章)。加えて、その直後の第三部第五章に登場する「サミュエル・グレック商会」もじつは実在の海運業者であり、マルタ島でヴェルヌのヨットを修理していたことがピエロ・ゴンドロ・デラ・リーヴァによって確かめられている。この研究者が結論づけているように、「〈驚異の旅〉にはいまなお発見されておらず、発見を目指して努力しなければならない自伝的な要素がたくさん秘められている」[★06]のである。

 かくして『シャーンドル』は――ヴェルヌの最初の伝記作者マルグリット・アロット・ド・ラ・フュイの表現を借りるならば――「この船旅の最中に大量の風景、人物、事件を詰めこんで拡大された結果、そのすべてを収めるのに八折判の本が三冊も必要になっていく」[★07]。実際、この作品は――大型の「8折判」ではなく、通常単行本(18折判)で――計3巻の大作として刊行されることになるのだが、長・短合わせて70篇を超えるヴェルヌの小説の中でも3巻に渡る巨大なスケールをもつものといえば、『シャーンドル』を除けばわずかに2篇(『グラント船長の子どもたち』と『神秘の島』)しか存在しない。地中海で敢行された材料集めの船旅は、ことほどさように大きな成果をもたらしたのである。

 さて、そろそろヴェルヌの書斎に話を戻すことにしよう。『シャーンドル』の制作は、その後も順調なペースで続けられていく。9月二21日付の書簡には、「毎日10時間ほど働き、へとへとなのですが、主題に引っ張られているので、途中では止まれないのです」という一節があり、執筆にのめりこんでいる様子がうかがえる。第二巻(『シャーンドル』第二部後半と第三部に相当)の完成が間近であることも、同じ手紙の中で伝達されている。その約1か月後、10月30日付の書簡では、「最終の第三巻をなす第四部と第五部も、もうすぐお届けできるでしょう」とエッツェルに予告。実際、第五部の原稿は12月1日付の書簡とともにエッツェルに送られており、編集者の方でも年末までには『シャーンドル』全体を読み終えていたことが手紙の文面からは推測される。

 1885年に入っても、ヴェルヌはエッツェルの意見を採り入れながら『シャーンドル』の推敲を続けていたようだが、同時に次の作品『征服者ロビュール』の制作にも着手している。2月2日付書簡の中で、早くも新作の「全体的な構想はできあがり、第一章が書けた」と報告しているのである。同月25日付の書簡には、「2日後には絶対に〔『シャーンドル』〕最終部のゲラの校正が終わっているはずです」という一文が見つかり、この作品はすでに仕上げの段階に入っていることが分かる。さらに3月18日付の書簡では、「完全に準備の整った」『シャーンドル』については特にもう手を加えることもないので、本職の船乗りだった弟のポールに海洋関連の記述をチェックしてもらっていることを告げている。このころすでに執筆作業の軸足は『ロビュール』の方に移されており、ヴェルヌとエッツェルのあいだでの『シャーンドル』についての主な話題は、掲載紙決定のための交渉である。1884年の暮れ頃からエッツェルは「フィガロ」紙と交渉していたのだが、最終的にこれは決裂し、『シャーンドル』は「ル・タン」紙に掲載されることとなる。

「ル・タン」紙とのあいだで話がついたことを知らせるエッツェルの書簡は6月6日付だが、その十日後、6月16日にはもう『シャーンドル』の連載が始まっている。その後、9月20日に新聞連載は終了し、その年の内に『シャーンドル・マーチャーシュ』はエッツェル社から全3巻の単行本として刊行される。

 この作品、発表当初から評判は上々だったらしく、「ル・タン」紙での第一部の連載が終盤に差しかかろうとしていた1885年7月9日付の書簡で、エッツェルは、「聞くところによると、『シャーンドル』の序盤は成功を収めているらしい」とヴェルヌに報告している。その後も、第二部連載中の7月20日付書簡では、「第一部と第二部の序盤が褒められているのをいたるところで耳にする」、単行本刊行後の12月19日付書簡では、「売り上げ面でのヒットはかなり大きいようだ」とヴェルヌに伝えるなど、エッツェルの手紙の文面を信じるならば、本作品は発表直後から一貫して好評を博していたようである。

[★03]書簡の引用はすべて以下の書物から行う。Correspondance inédite de Jules Verne et de Pierre-Jules Hetzel, éd. Olivier Dumas, Piero Gondolo della Riva et Volker Dehs, Genève, Slatkine, t. III, 2002.
[★04]Ange Galdemar, « Un après-midi chez M. Jules Verne », Le Gaulois, n° 5645, 28 octobre 1895, p. 2.
[★05]« Le Voyage de M. Jules Verne » (Lettre de Robert Godefroy à Frédéric Petit), Journal d’Amiens. Moniteur de la Somme, 30 juin et 1er juillet 1884, p. 2 ; cité dans Volker Dehs, « Les croisières en Afrique : M. Jules Verne en voyage », Jules Verne, l’Afrique et la Méditerranée, dir. Issam Marzouki et Jean-Pierre Picot, Paris, Maisonneuve & Larose et Tunis, Sud Éditions, 2005, p. 124.
[★06]Piero Gondolo della Riva, « Jules Verne à Malte », Bulletin de la Société Jules Verne, n° 25, 1973, p. 7.
[★07]Marguerite Allotte de la Fuÿe, Jules Verne, sa vie, son œuvre [1ère éd. 1928], Paris, Hachette, 1953, p. 171.

【目次】

[上巻]

  デュマ・フィスへの献辞

第一部
 第一章 伝書鳩
 第二章 シャーンドル・マーチャーシュ伯爵
 第三章 トロンタル銀行
 第四章 暗号で書かれた手紙
 第五章 裁判とその前後
 第六章 パジンの主塔
 第七章 フォイバ川の急流
 第八章 漁師フェラートの家
 第九章 最後の闘い、最後のあがき

第二部
 第一章 ペスカードとマティフー
 第二章 トラバコロの進水
 第三章 アンテキルト博士
 第四章 バートリ・イシュトヴァーン未亡人
 第五章 さまざまな出来事
 第六章 コトル湾
 第七章 事態の紛糾
 第八章 ストラドゥン大通りでの鉢合わせ

第三部
 第一章 地中海
 第二章 過去と現在
 第三章 ラグーザでは何が起こっていたか
 第四章 マルタ島の近海で

  註


[下巻]

第三部
 第五章 マルタ島
 第六章 カターニア近郊で
 第七章 カーザ・イングレーゼ
 
第四部
 第一章 セウタの流刑囚収容所
 第二章 博士の実験
 第三章 十七回
 第四章 最後の賭け金
 第五章 神様 気付
 第六章 出現

第五部
 第一章 カップ・マティフーのひと握り
 第二章 コウノトリの祭り
 第三章 シーディ・ハザムの屋敷
 第四章 アンテキルタ
 第五章 裁き

  註
  ジュール・ヴェルヌ[1828–1905]年譜
  訳者解題

【訳者略歴】
三枝大修(さいぐさ・ひろのぶ)
1979年、千葉県生まれ。ナント大学博士課程修了、博士(文学)。現在、成城大学経済学部教授。専門は近代フランス文学。共著に『モダニズムを俯瞰する』(中央大学出版部)、『フランス文学を旅する60章』(明石書店)、『ジュール・ヴェルヌとフィクションの冒険者たち』(水声社)。共訳書にミシェル・ビュトール『レペルトワールI』『レペルトワールII』(幻戯書房)、ミシェル・レリス『オペラティック』(水声社)、ジュール・ヴェルヌ『蒸気で動く家』(インスクリプト)などがある。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。本篇はぜひ、ジュール・ヴェルヌ『シャーンドル・マーチャーシュ 地中海の冒険 [上・下]』をご覧ください。