ジェイムズ・M・ケイン『ミルドレッド・ピアース 未必の故意』訳者解題(text by 吉田恭子)
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ジェイムズ・M・ケイン『ミルドレッド・ピアース 未必の故意』訳者解題(text by 吉田恭子)

幻戯書房編集部
 2021年3月24日、幻戯書房は海外古典文学の翻訳シリーズ「ルリユール叢書」の第13回配本として、ジェイムズ・M・ケイン『ミルドレッド・ピアース 未必の故意』を刊行いたします。ジェイムズ・M・ケイン(James M. Cain 1892–1977)は雑誌編集者、脚本家としても活躍し、中編小説の大ヒット作『郵便配達は二度ベルを鳴らす』をはじめ、『倍額保険』『セレナーデ』など1930年代アメリカの「タフガイ小説」(後の「ノワール小説」)の代表的作家として知られます。古典期ハリウッドのフィルム・ノワール諸作品に影響を与えてもいます。本作『ミルドレッド・ピアース』(1941年刊)は『ミルドレッド・ピアース』(1945年)の映画をはじめ、『深夜の銃声・偽りの結婚』『ミルドレッド・ピアース 深夜の銃声』として映像化され、2011年には、アメリカのケーブルテレビHBOで『ミルドレッド・ピアース 幸せの代償』としてドラマ化されるなど、ミステリー好きにも愛される、本格派のノワール小説です。日本の出版史では現在まで何度か邦訳が噂されながら、原著刊行より80年を経てようやく実現。まさに待望の刊行といえます。

 以下に公開するのは、訳者・吉田恭子さんによる「訳者解題」の一節です。

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ジェイムズ・M・ケイン『ミルドレッド・ピアース 未必の故意』訳者解題(text by 吉田恭子)


 1931年の末、ジェイムズ・M・ケインはパラマウント社と脚本家契約を結び、雑誌「ニューヨーカー」を後にして、大陸を横断、南カリフォルニアに移住した。39歳だった。
 以後、1948年にオペラ歌手フローレンス・マクベスとの四度目の結婚をきっかけに故郷メリーランド州に戻るまでの17年間、ロサンゼルスはケイン文学の土壌となる。1977年に没する前年まで小説を発表し続け長いキャリアを誇ったケインだが、その代表作はすべてカリフォルニア時代の作品だった。脚本業に動員された多くの作家同様、ケインのハリウッドに対する態度はアンビバレントなもので、あるときは新興娯楽への軽蔑を露わにし、あるときは映画作劇術からのインスピレーションをすなおに認めた。カリフォルニア時代のケインにとってシネマは生業であり文学教師だった。カリフォルニアを去った後も、さらには没後今日に至るまで、ケイン文学と映画は共依存の関係にあった。ケインの文学的延命はハリウッド映画の受容史と切り離せない。評価が更新され続けるケイン文学の魅力を探る補助線として、ケインの前半生からカリフォルニア時代までを簡単に振り返り[★01]、映画受容史と絡めて現代までの評価の変遷をまとめ、ロサンゼルスとケイン文学のつながりを確認してみたい。

フィルム・ノワールの登場まで
 ジェイムズ・マラハン・ケインは、1892年、東海岸メリーランド州の州都、17世紀に入植が始まり植民地時代の建造物も多く残る古都アナポリスで、イェール大学卒の英文学者の父、元ソプラノ歌手の母との間に五人きょうだいの第一子として生まれ、カリフォルニアとは風土も文化もまったく違うメリーランドで育った。のちにワシントン・カレッジの学長に出世する父親の影響力が強い家庭で、父にコンプレックスを抱いていた。父親からはどんな時も正確な英語で話す習慣を、母親からは音楽愛と鋭い耳を受け継いだ。
 若くして飛び級しそのまま大学へ進学したため、心身の発達が未熟なまま年上の同級生に囲まれて学び、学校や大学での学業は空疎なものに感じたという。そのため18歳で大学を卒業したのち、人生の目標が定まらず転職を続けることになる。保険・食品・土木業界での経験がのちに小説執筆時に生かされることになる。
 職業を転々とする一方で、クラシックのコンサートに通っていたケインは、22歳の時にオペラ歌手を目指すことを決心し、ワシントンD. C. の声楽家に師事する。その際、母親には、才能がないからものにはならないとあらかじめ告げられていた。けれども青年ケインは実際に挑戦して挫折を経験しないことには納得できなかった。この真に最初の挫折があてどない生活からの方向転換を促したといえるだろう。失望してホワイトハウス向かいのラファイエット広場のベンチに座っているとき、「お前は作家になるんだ!」という声が突然聞こえたという。
 だが啓示を得ても紆余曲折があった。習作を執筆しながら教師や新聞記者として働き、米国が第一次世界大戦に参戦すると、健康状態が悪く兵役検査に落ち続けてもあきらめず、1918年なんとか入隊しフランスへ派兵される。帰国後最初の結婚と腸チフス療養を経て、1922年、新聞「ボルチモア・サン」記者としてウェストヴァージニアの労働争議を取材したのをきっかけに、急進的労働運動を題材に長編執筆を試みるが断念する。ケインはごく普通のアメリカ人の話しぶりに敏感に反応する耳を持っていた。けれども後年本人が回想するように、東部地方の労働者階級の口語は地方色が濃く、クセがありすぎて、文字で再現するとわざとらしく響いた。
 このころ、批評家・編集者のH. L. メンケン(1880‐1956)と出会う。戦間期のジャーナリズムに絶大な影響を与えたメンケンは、文芸誌「アメリカン・マーキュリー」(1924‐33)とパルプ雑誌「ブラック・マスク」(1920‐51)の創刊と編集に関わっており、今日振り返れば「ノワールのゴッドファーザー[★02]」ともいえる存在だった。
 ケインは1924年ニューヨークに移り住み「ニューヨーク・ワールド」紙で論説執筆担当となる。その一方で「アメリカン・マーキュリー」誌にルポや風刺ダイアローグを寄稿した。訛りや階級化した言語を戯画化した風刺小劇で、長編コメディ『メジャー・リーグのうぬぼれルーキー』(1916)で同様の手法を使いヒットしたリング・ラードナーの影響が大きかった。大衆の声(ヴォイス)はケインの創作的関心の核であり続けた。
 1928年、デビュー短編「パストラル」が「マーキュリー」に掲載される。このころ映画はサイレントからトーキーに移行し、制作会社(スタジオ)に脚本家の受容が沸き起こる。1930年にニューヨークの文芸出版社アルフレッド・A・クノップ社から、風刺ダイアローグをまとめた『われらの政府』を出版、これが翌年パラマウント社との脚本家契約につながった。「ワールド」紙売却・廃刊に伴いハロルド・ロスが初代編集長をつとめる「ニューヨーカー」誌で事務をとりしきるマネージング・エディターの職に就くが、雑誌の運営スタイルに実務的視点が欠落していたことがたいそうなストレスとなり、ハリウッドからの誘いにすぐさま応じた。
 当初、脚本家としては不評で、パラマウントの契約はわずか6カ月で解消され、つづくコロンビアとの契約は6週間しかもたなかった。ところが、他人が書いた脚本の鑑定力を買われてふたたび映画業界に舞い戻り、そこで映画製作のプロセス、映画の物語作法、映像の文法を学ぶ姿勢に徹する。先輩脚本家ヴィンセント・ローレンスとの友情も刺激になった。ハリウッドと反りが合わず執筆への悪影響を嘆いた作家は多いが、ケインの場合は逆だった。引き締まって無駄がなくカメラのように突き放した視点はそこから生まれたといってもよい。徐々にアダプテーションをさばく力や改稿力を評価されるようになり、MGM、ユニヴァーサル、ワーナー・ブラザースなどでも仕事をするようになる。そうして、ハリウッド移住三年目、ロサンゼルス一帯を舞台に流浪者フランク・チェンバーズが食堂経営者の妻と恋に落ち夫殺人に至る顛末を主人公一人称の語りで描いたセンセーショナルな第一中編小説『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1934)がベストセラーとなる。
 東部と比べてカリフォルニア民衆の口語はケインと相性がよかった。彼らにしゃべるように語らせること――ケインがもっとも注意を払ったのは語りの声だった。後にケインが一人称語りの作家としての定評を得る所以である。これはまたハードボイルド小説の慣習とも一致した。
 1920年代後半から1930年代にかけてパルプ雑誌「ブラック・マスク」を中心に全盛となったハードボイルド小説は、特権的な探偵による謎解きに主眼を置く伝統的殺人ミステリー小説と違って、ヘミングウェイの影響を強く受けた文体で、都会を舞台に突き放した描写と街に息づく言葉遣いを特徴とし、社会正義の実現と利己的な自己保存の狭間を生き、ときとして暴力的な解決策をもいとわない労働者としての私立探偵の活躍を描いた。ハードボイルド小説は、1940年から60年にかけて製作された一連のハリウッド映画の原作となる。これらの映画はドイツ由来の表現主義的映像美学、フランス映画の詩的なリアリズム、そして20年代から流行したギャングスター映画からも影響を受けており、そのスタイルの特異性を指摘したフランスのシネアスト、ニーノ・フランクが1946年に「フィルム・ノワール」と命名した[★03]。
 ケインの小説を原作とした『深夜の告白』(1944、ワーナー)、『ミルドレッド・ピアース 深夜の銃声』(1945、ワーナー)、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1946、MGM)もフィルム・ノワール作品だが、原作は厳密にはハードボイルド探偵小説に分類し難く、「タフガイ」小説・「タフガイ」小説家といった呼称が使われたりもした。そのような呼称が必要とされたということは、裏を返せば文芸度の低いジャンル小説と見なされたためで、ケインの評価は同時代の高踏的文学批評家にとってやっかいな課題だった。着想や筋立てが低俗だと見なされただけでなく、独特の切り詰めた物語展開や描写、ときとして洗練さを欠くセリフが非芸術的かつ英語リアリズム小説の伝統とは異質な印象を与えたようだ。そのためダシール・ハメットやレイモンド・チャンドラーのようにハードボイルド小説家として早々に正典的位置づけを得ることもなく、長らくキャンプ的興味の対象であった。
 最初期の評価者エドマンド・ウィルソンでさえ、1941年出版の評論集『不良少年――カリフォルニアの小説家について』においてその作品に詩的センスを認めつつ、「イカれた太平洋岸の千夜一夜」「タブロイド殺人の詩人」「ハリウッドの手先による…人並み外れた映画のパロディ」と、その通俗性に対して冷淡で皮肉交じりの態度をとった[★04]。

ノワールの行く末
 さてフランス由来の「フィルム・ノワール」の呼称がアメリカに逆輸入的に定着するのは呼称誕生から約20年後アメリカン・ニューシネマの時代に重なり、古典ノワールの諸要素を意識的に援用するネオ・ノワール作品群へと継承されていく。それが最初のケイン・リバイバルのきっかけとなった。1969年には小説家トム・ウルフが序文を寄せた代表三作集『ケインX3』がクノップ社より出版され、1981年には、ボブ・ラフェルソン監督、劇作家デイヴィド・マメット脚本、ジャック・ニコルソン主演のネオ・ノワール『郵便配達は二度ベルを鳴らす』が登場する[★10]。けれどもこの時点ではまだ「ノワール」であるのはもっぱら映画であり、小説はあくまで「ハードボイルド」であり続けた。映画と小説、フィルム・ノワールとハードボイルドが収斂するきっかけとなるのは、1987年、『ブラック・ダリア』にはじまるジェイムズ・エルロイ作のロサンゼルス・カルテット(1987‐92)である。1940年代すなわち古典ノワール映画期のロサンゼルスを舞台としながら、ハードボイルド小説の慣習を踏襲するのみならず、フィルム・ノワールの諸要素をも積極的に取り込む一方で、映画検閲のヘイズ・コードなどで当時抑圧されていた暴力と性を過剰なまでにセンセーショナルに描いたエルロイの小説の登場によって、「ノワール」はもはやフィルムだけではなく、文芸、さらには都市のありようそのものを表す、ジャンルや時代を越えた感受性を指す言葉として拡散していく[★11]。
 このような広義の「ノワール」という使い方をした最初期の例が、1990年出版のマイク・デイヴィスによる古典的都市論『要塞都市LA』である。

南カリフォルニアの大恐慌で逆上した中産階級こそが、「ノワール」として一般に知られる偉大な反神話のもともとの主人公だった。「ノワール」は、開発業者が描く理想郷の魅力的な要素のひとつひとつを、不気味なものに変貌させる変換原理のようなものだった。一九三四年、ジェイムズ・M・ケインの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』を皮切りに、そろってスタジオ制度に雇われの身の作家らによって書かれた一連の「鏡の中にある如き」小説が、ロサンゼルスのイメージを根無し草の都会の地獄として塗り直したのだ[★12]。

 ノワール的感受性は単に映像文化にハードボイルド文学を吸収合併したものではない。「ハードボイルド」から「ノワール」への変化は単なる呼称の変化ではなく、価値や枠組みの変化を伴っている。70年代から80年代にかけてのフェミニズム批評が変化の後押しにもなった。とりわけ、フィルム・ノワールの女性表象が映画研究の対象となり、たとえばパム・クックやリンダ・ウィリアムズによる映画『ミルドレッド・ピアース』論などが、後の世代の映画監督を筆頭に多方面に影響を与えた[★13]。
 翻って、フィルム・ノワールのヒーローたちは、もはやタフガイではなく、男性性の危機に瀕していると見なされるようになった。フォスター・ハーシュはその裏に潜むヒステリアを80年代に嗅ぎ取っているし[★14]、ノワール的感受性が小説をも包括するようになる2000年代になると、アメリカ的英雄の美徳を欠く弱いアンチヒーローとみなされるようになり、アンドリュー・スパイサーは、「典型的ノワールの男性主人公は弱く、方向性を見失い、不安定で、無力で、傷ついており、一連の強迫観念に悩まされ、直面する問題を解決できない男たちである」とまで言ってのける[★15]。
 あらためて見直せば、ケインの男性主人公たちはことごとく弱い。彼らの「タフさ」はあくまでも感情を言語化できないことに由来する。そして「ハードボイルド」の枠組みでは居場所が定まりづらかったケインの文学は、ジェンダー観が変化し、ノワール的感受性が広く認知されるようになった今日、みたび浮上し見直されるようになったといえるだろう。
 2011年、小説出版から70年後、ケーブルテレビ局HBOが計5時間半に及ぶミニドラマシリーズ『ミルドレッド・ピアース 幸せの代償』を放映した。映画のリメークというより、再アダプテーションと呼ぶべき本作は、小説に沿ったプロットで、会話もほぼ忠実に再現されている。ケイト・ウィンスレット(ゴールデングローブ賞受賞)演ずるミルドレッドは、クロフォードに比べるとはるかに庶民的で、ニュー・クイア・フィルムの騎手トッド・ヘインズ監督は、家事労働をおのれの才覚でビジネスに発展させるヒロインの働きぶりと感情の起伏に寄り添うようにていねいに物語を進める。ケインの語り手がときとして辛辣なのに対して、ドラマ版は主人公に共感的なのが特徴だ。画面には南カリフォルニアの陽光が溢れているにもかかわらず、そこはかとなく寂しいトーンの本作は、「ハードボイルド」ではない原作小説の「ノワール」的側面を汲み取った作りとなっている。

[★01]以下ケインの伝記については、Madden, James M. Cain、Polito、Skenazy、Cain and Zinsser などを参照。
[★02]Fine, “Introduction,” Los Angeles in Fiction 7
[★03]Porfirio, Robert G. “No Way Out: Existential Motifs in the Film Noir.” 1976. Film Noir Reader, edited by Alain Silver and James Ursini, Limelight Editions, 2003. pp. 77-85.
[★04]Wilson, Edmund. “James M. Cain.” The Boys in the Back Room: Notes on California Novelists, Colt P, 1941, pp.10-14.
――
[★10]フィルム・ノワールとネオ・ノワールの関係については、Gilmore, Richard. “The Dark Sublimity of Chinatown.” The Philosophy of Neo-Noir, edited by Mark T. Conard, UP of Kentucky, 2007を参照。
[★11]Davis, Mike. City of Quartz: Excavating the Future in Los Angeles, pp.45-46.
[★12]Davis 37
[★13]Cook, “Duplicity in Mildred Pierce”やWilliams, “Feminist Film Theory: Mildred Pierce and the Second World War”などを参照。
[★14]Hirsche, Foster. The Dark Side of the Screen: Film Noir. 1981. Boston: Da Capo P, 2001, pp.27-32.
[★15]Spicer, Andrew. “Problems of Memory and Identity in Neo-Noir’s Existentialist Antihero.” The Philosophy of Neo-Noir, edited by Mark T. Conard, UP of Kentucky, 2007, p. 47.
【目次】

 第一章
 第二章
 第三章
 第四章
 第五章
 第六章
 第七章
 第八章
 第九章
 第十章
 第十一章
 第十二章
 第十三章
 第十四章
 第十五章
 第十六章
 第十七章

    ジェイムズ・M・ケイン[1892–1977]年譜
    訳者解題

【訳者紹介】
吉田恭子[よしだ・きょうこ]
1969年福岡県生まれ。京都大学人間環境研究科博士課程退学後、ウィスコンシン大学ミルウォーキー校にてクリエイティヴ・ライティングを専攻し Ph.D.(英文学)取得。現在、立命館大学文学部教授。著書に、Disorientalism(Vagabond Press)、『ベースボールを読む』(慶應義塾大学出版会)、『現代作家ガイド―カート・ヴォネガット』(共著、彩流社)、『現代アメリカ文学ポップコーン大盛』(共著、書肆侃侃房)など。訳書に、デイヴ・エガーズ『ザ・サークル』『王様のためのホログラム』(共に早川書房)など。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。本篇はぜひ、『ミルドレッド・ピアース 未必の故意』をご覧ください。
幻戯書房編集部
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