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グザヴィエ・ド・メーストル『部屋をめぐる旅 他二篇』訳者解題(text by 加藤一輝)

 2021年9月24日、幻戯書房は海外古典文学の翻訳シリーズ「ルリユール叢書」の第16回配本として、グザヴィエ・ド・メーストル『部屋をめぐる旅 他二篇』を刊行いたします。グザヴィエ・ド・メーストル(Xavier de Maistre  1763–1852)はサルデーニャ王国生まれのフランス語圏作家。著名な反動思想家ジョゼフ・ド・メーストルの弟として知られるグザヴィエは、フランス革命下に自らの部屋を旅した旅行記『部屋をめぐる旅』を著し、蟄居文学の嚆矢として世界文学史に名を残しました。また、ジュネーヴの作家で、コマ割マンガの始祖とされるロドルフ・テプフェール(Rodolphe Töpffer 1799–1846)と親交があったことも特筆すべきでしょう。
 本書は、グザヴィエの代表作「部屋をめぐる旅」と、その続編「部屋をめぐる夜の遠征」、「アオスタ市の癩病者」の3篇の中編小説と、批評家サント゠ブーヴによる「グザヴィエ・ド・メーストル伯爵略伝」を収録しています。
 以下に公開するのは、訳者・加藤一輝さんによる「訳者解題」の一節です。

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グザヴィエ・ド・メーストル『部屋をめぐる旅 他二篇』訳者解題(text by 加藤一輝)

部屋を「めぐる」旅

 われわれは、ここに再版する興味深い発見や冒険を行なった人物よりも前に存在した旅行家たちの価値を、貶めるつもりはない。マゼラン、ドレーク、アンソン、クックといった方々は、疑いなく偉大な人物である。ただ、もしわれわれの思い違いが過ぎるのでなければ、あえてこう言わねばならない、『部屋をめぐる旅』には先立つ全ての旅をはるかに上回る特別な価値があるのだ、と。

 1811年にサンクトペテルブルクで『部屋をめぐる旅』を再版する際、グザヴィエの兄であるジョゼフ・ド・メーストルは、編者による序文をこのように始めています。錚々(そうそう)たる航海者たちによる世界一周の試みを優に超えるという、この風変わりな『部屋をめぐる旅』は、いったいどのような旅行記なのでしょうか。

 グザヴィエ・ド・メーストルが「部屋をめぐる旅」を思い立ったのは1790年、18世紀の終わりです。18世紀は、旅の幅が大きく拡がった時代でした。もちろん人間は昔から旅へ出かけていましたが、それは公の旅でいえば戦争や布教のため、個人の旅でいえば貿易や聖地巡礼など、何か実利や目的のある旅でした。しかし18世紀には、周游や観光といった、旅そのものを楽しむための旅が広まりつつありました。そうした新しい旅の影響は『部屋をめぐる旅』の随所に読み取れます。というのも、グザヴィエは本職の作家ではないので、自身の興味について作品中で正直に明かしており、何に感化されたか隠していないからです。まだ18世紀ですから、専業作家なる地位じたい確立していない時代ではありますが、そもそも当時のグザヴィエ青年は、文筆で身を立てるつもりなどなく、文学的素養を多分に備えていたのでもない、貴族の末弟のならわしどおり軍務に就いたサルデーニャ王国軍の一志願兵でした。26歳のとき、決闘騒ぎを起こしてトリノの城壁の部屋に42日間の軟禁刑となったため、手すさびに書かれた『部屋をめぐる旅』は、きわめて独創的な構想にもとづく作品でありながら、それで文学的な画期を試みようという野心は全くない、ささやかに書かれ抽斗にしまわれていた身辺雑記にすぎなかったのです。実際、いずれも兄ジョゼフによって刊行された1795年のローザンヌ版(この版には1794年トリノ刊と書かれており、サント゠ブーヴもそれにしたがっていますが、実際には翌年ローザンヌで出版されたようです)でも、1811年のサンクトペテルブルク版でも、グザヴィエの希望により著者名は伏せられていました。

 この作品の最も大きな魅力のひとつは、部屋と旅という相容れないふたつの要素を結びつけた、撞着語法的な表題にあります。どうやって部屋を旅するのだろう、と読者は惹きこまれるでしょう。しかし今一度よく見てみると、表題は「部屋の中の旅  Voyage dans ma chambre」ではありません。「周り  autour de」を意味する前置詞句を「部屋  chambre」に対して使うことができるのでしょうか。古い辞書を引いてみても、たとえばアカデミー・フランセーズの辞書の第五版(1798年)にはやはり「周り」「傍」といった意味しか挙げられておらず、用例として載っている「ある家の周りをくまなく回る  Roder tout autour d’une maison」を見れば、これが家の中ではなく外であることは明らかです。ところが、これを「世界  monde」に対して使ったときのみ、その外側というのは考えにくいですから、自ずと「世界中をめぐる  autour du monde」という意味になります。したがって、きだみのるが『気違い部落周游紀行』の冒頭で指摘しているとおり、「部屋をめぐる旅  Voyage autour de ma chambre」という表題は、定型句としての「世界一周旅行  Voyage autour du monde」をもじっているのです。

彼は自分の部屋を旅行し、観察し、数々の未知を発見し、これに就てのエキゾチクと云ってよいほどの驚きを記録している。彼の部屋は殆ど一つの世界である。居室周游紀行という題は世界周游紀行という熟句を模して作られているのもこのためであろう。

 当時最新の世界周游紀をグザヴィエが読んでいたこと、それに自身の旅を重ねつつも張り合おうとしていることは、特異な表題のみならず、たとえば第三十八章でジェームズ・クックや同行者であったジョゼフ・バンクスとダニエル・ソランダーの名を挙げていることからも伺えます。さらにクックと並ぶ18世紀後半の世界周航として、こちらは直接の言及はありませんが、フランス人として最初の世界一周を行なったブーガンヴィルも想起されるでしょう。注意したいのは、この頃には大航海時代もとうに終わっており、世界周游に期待されるのは必ずしも華々しい新大陸発見ではなく、むしろ丹念な測量と探索の旅だったということです。クックの旅には天文学者が同行し、タヒチで金星の太陽面通過を観測しました。バンクスとソランダーは植物学者です。ブーガンヴィルもやはり天文学者や植物学者を伴なって各地の風土を観察しました。こうした旅は、いわば再発見の旅であって、どこか目的地に到達するよりも、一周する、すべて廻って元に戻ってくることが重要なのです。これはそのまま『部屋をめぐる旅』の理念にもなっていて、もとより自分の部屋ですから全ては既知の場所であり、グザヴィエは同時代の世界周游家に倣って、縦横無尽に歩き回り、測量と探索を行なうのです。

自己探求旅行

 ただ、当時は誰もが簡単に遠距離を旅できる時代ではなく、こうした世界旅行は公的な任務による遠征です。クックもブーガンヴィルも隊を率いて航海したのであって、私的な気まぐれ旅行ではありません。その旅行記は自然科学の観察録に近く、ただちに文学と看做せるか定かでありません。グザヴィエが自身の旅の長所を述べるとき真っ先に挙げているように、旅とは高額かつ危険なもので、無定見の庶民がひとりで行くことはできないし、気軽に行くべきでもなかったのです。むやみに出歩くことを諫(いさ)める箴言は、『部屋をめぐる旅』の初版でエピグラフに掲げられたグレッセの一節や、『アオスタ市の癩病者』に引かれている『キリストに倣いて』のみならず、たとえば「人間のあらゆる不幸の元はただひとつ、落ち着いて部屋にいる術を知らないことだ」(パスカル『パンセ』)や、「旅に相応しいひとは極めて少ない。自己が確立していて、間違った教えを聞いても惑わされず、悪徳の手本を見ても引きずられないようなひとにしか向かない」(ルソー『エミール』第五編)など、枚挙に暇がありません(ルソーと旅、あるいはルソーとアルプスについては、より仔細な検討を要するため、ここでは割愛します。グザヴィエの自然への感性はルソーと似ているようにも思われますが、作中あれほどさまざまな作品を挙げながら、ルソーへの言及はありません)。

 ここでもうひとつ重要な時代背景となるのが、グランド・ツアーの勃興です。ヨーロッパの戦乱、いわゆる17世紀の危機が落ち着いてきた17世紀後半から、18世紀末のフランス革命前まで、イギリスの貴族は、子息に教養をつけさせるためイタリアへ旅をさせていました。当時まだイギリスは大学がさほど発達しておらず、それに当時の教養とは古典美術、とりわけ建築と彫刻でしたから、ならばイタリアへ本物を見に行かせようと、20歳くらいの若者が何年かイタリアへ、今でいう留学のようなことをするのです。しかし実際のところ皆が旅先で真面目に勉強するはずもなく、こうした資金を持つ旅行者の放恣(ほうし)を当てこんで、イギリスからフランスを通ってイタリアへ、街道筋に新たな産業が勃興しました。ホテルやレストランができたり、名所旧跡では似顔絵屋が流行ったりします。今でいう記念写真のように、名所を背景にした似顔絵を描いてもらうのです。つまり観光産業のようなものが18世紀に発達してゆく、するとますます一般のひとも旅しやすくなって、18世紀の後半には、グランド・ツアーのルートを使った家族旅行なども増えてきます。旅が一般化すると同時に商業的になってゆき、のちに19世紀にはフランス語でも「ツーリスム  tourisme」と呼ばれて現代にまで至る、観光という旅の形の端緒を開いたのです。

 しかしグザヴィエはトリノにいますから、こうした旅行者が来るのを見ている側にいます。冒頭の何章かで、自分の旅を「まったく費用がかからなかった」とか「ローマやパリを見たという旅行者たちを道すがら笑いながら」と謳(うた)うように、商業化したグランド・ツアーに対する揶揄、観光ルートどおりの旅行に対する皮肉が伺えます。そして、この旅には決まった道がない、気まぐれにジグザグに歩くのだ、とか、道中に現われるものは何でも貪欲に受け取る、といいます。実際、グザヴィエは結構おっちょこちょいで落ち着きがないので、そのために部屋で出くわした事件や、そこから自分が思いめぐらしたことなどを、飾らず率直に描いてゆきます。

 自分の経験や考察を書くというのは、今では当たり前のように思われますが、ある時期まで文学とは、歴史上の出来事とか、偉大な人物の伝記とか、宗教的な教えとか、永遠に変わらない真実を記しておくためのものであって、私的な見聞や感想は、正しくもないし重要でもないから、ほとんど書かれませんでした。『部屋をめぐる旅』の冒頭でも、「ふいに学者の世界に現われるのは、何と光栄なことだろう!」といって、著者は公刊に値するような本を書ける専門家でないことを白状しています。けれども旅行記は、一応は事実に基づいているし後のひとの参考にもなるだろうという執筆の名目が立ち、また同時に、旅そのものは個々の体験であって読者はそれぞれに旅してくれればよいということで押しつけがましさがない、つまり普遍的でもあり個人的でもあるという都合のよさがあります。グザヴィエも、旅行記という形ならば、自分の考えたこと感じたことを書きやすかったのでしょう。『部屋をめぐる旅』は、安楽椅子に座っていても想像力を羽ばたかせればどこへでも行けるといった観念的な意味での旅ではなく、本当に部屋を歩き回って、窓、ベッド、壁に掛かる絵や鏡、書斎机、と行き当たったものから考えをめぐらせ、馴染のものしかないはずの部屋で生真面目に旅を実践したからこそ、自分について書けたのです。それはジョゼフもサンクトペテルブルク版の序文で強調をこめて指摘しています。

 不見識な者が『部屋をめぐる旅』を空想旅行に分類しようとするのは、じつに嘆かわしいことだ。すべてのページが実在するもので輝いているひとつの作品にそんな判断を下すのは、よほど知性が錆びついているか、真実に対する感性と無縁であるに違いない。

 個人による旅行記は、手紙や日記と同様、ある意味で私的な雑録にすぎず、ただちに文学と看做せるか定かでありません。しかし逆にいえば、旅という体裁さえ保っていれば何でも旅行記となり、旅の途中で見たと称して好きなことを書ける、自由な枠組でもあります。このあと19世紀になると、オリエンタリズムの流行もあって、実際に東方へ行ってもいるのだけれど、そこでの実体験と空想の入り混じった、たとえばシャトーブリアン『パリからエルサレムへの道のり』、ネルヴァル『東方紀行』、フローベール『東方旅行記』など、文学者による私的かつ詩的な旅行記が多く書かれるようになります。そうした19世紀の旅は、テプフェール『ジグザグの旅』やゴーティエ『気まぐれとジグザグ』の題名が示すとおり、まさしく『部屋をめぐる旅』で述べられていた「ジグザグ」な足取りを流儀としているのです。

 どのような旅行記であれ共通するのは、筆者そのひとが見たものが書かれている、ということです。旅行記の主語は必ず「わたし」となります。ずっと前からそこにあったもの、誰もが目にしているありふれたものでも、たまたま「わたし」がそれに目を留めたことで、旅行記が書かれるのです。この「わたし」の偶然の出会いによって、いわば再び作り直された世界を、読者は読んでいる。そうすると、旅の内容よりも、むしろ旅の方法こそ重要だと言えるでしょう。実際グザヴィエは「わたしの(新しい)旅の方法」という言いかたを繰り返し、読者を誘います。グザヴィエの『部屋をめぐる旅』、あるいは他の旅行記でもよいですが、それを読むというのは、書かれたことのひとつひとつから知見を得るというよりも、旅の全体を通して旅の方法を学び、自分もその方法で旅してみることなのです。グザヴィエの方法で、自分の部屋を、気まぐれに、ジグザグに、歩いてみる。夜に窓から空を眺め、もっとも小さな星を探してみる。それでこそ『部屋をめぐる旅』を読んだことになるかもしれません。


【目次】
部屋をめぐる旅
部屋をめぐる夜の遠征
アオスタ市の癩病者
   註
   サント゠ブーヴ「グザヴィエ・ド・メーストル伯爵略伝」

    グザヴィエ・ド・メーストル[1763–1852]年譜
    訳者解題
【訳者紹介】
加藤一輝(かとう・かずき)
1990年、東京都生まれ。東京大学大学院・人文社会系研究科(仏文)博士課程在学中。リヨン高等師範学校に游学ののちパリ大学(旧パリ第七大学)修士課程修了、その間に三度の部屋をめぐる旅を行なう。翻訳サークルCato Triptyqueからの訳書に、シャンフルーリ『猫』『諷刺画秘宝館』(共訳)、若月馥次郎『桜と絹の国』。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。本篇はぜひ、『部屋をめぐる旅 他二篇』をご覧ください。