見出し画像

コロナ禍2020〜2021随想⑦

最後に
 2020年は、平和の祭典として東京オリンピック・パラリンピックが開催された年になるはずだった。オリンピックが平和の祭典と言われたのは、古代オリンピックでは、開催地から居住地間における選手や観客の安全を願い、開催期間の戦争を休止していたことに由来する。その故事を受け継ぎ、1992年より国際オリンピック委員会が「オリンピック休戦」を提唱。選手やスポーツの価値を守るため、1994年のリレハンメル大会より導入された。
 私たちが住む星では、地殻変動による地震や火山の噴火など自然による災害で絶命する死に加えて、人間同士が殺戮し合う歴史が繰り返されてきた。平和の祭典とは、その反省から生まれた理念でもある。同じ方向に向かって走るマラソン大会もなんと素晴らしい平和の祭典ではないか。
 最近では甚大な震災が頻発し、原発事故が起き、数年ごとに新型ウイルスが世界に流行している。この日本列島ではいつ地面が揺れ、日常が丸ごと壊されるかわからないという不安を前提に、有史の以前から永らく営みが送られてきた。そんな中、この10年間で大地震が立て続けに起き、不安感は恐怖心へと移行し、人々の心に与えた衝撃は極めて大きく、自然を前にした人間の無力感という空洞が心にできた。人間は文明を築き科学の力で自然を制御し、人類の英知による進歩を築いたと勝手に思い込んできたものの、自然の力の前ではどうにもならないという現実に改めて直面させられた。
 そのような時期に追い討ちをかけるように新型コロナウイルスが流行して、人と人の接触もできない状況となり、この星に住む私たちの生活様式を一変させ、これまでの日常を非日常化させた。しかし、私たちにはこの星で生活していくしか手段も方法も持ち合わせていないのである。 
 世の中のグローバル化が、ウィルスの世界中への蔓延を加速させた。一方、グローバル化によって現代に生きる私たちは多様であることを認め合うという地球規模の思考力を持ち合わせてもいる。常に変化する環境に適応し易い生物の性質とは、非効率で無駄が多いことなのであれば、マスクやバフをしてまで走るという行為はその最たるものではないだろうか。このコロナ禍で走るという行為は、私たちが環境に適応しやすい生物であることの証なのかもしれない。

参考資料
千葉聡(2020)『進化のからくり:現代のダーウィンたちの物語』講談社
萩田泰永(2019)『考える脚』KADOKAWA
日本パラリンピックサポートセンター『パラサポスポーツで戦争をなくす? 「オリンピック休戦」とは?』
加藤茂孝(2009)『人類と感染症との闘いー「得体の知れないものへの怯え」から「知れて安心」へー「人は得体の知れないものに怯える』モダンメディア55巻9号 [人類と感染症との闘い]243-247

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?