見出し画像

第8話 記憶は花のよう

八年前の正月、横浜の実家に帰った。
「おばあちゃん、最近ちょっと調子が悪いのよ」
近所に住んでいる祖母の家に向かう道すがら、母が言いにくそうに口を開いた。

「また膝の調子でも悪いの?」
それには答えず、母は歩みを早めた。嫌な予感を抱えながらその後を追った。

「いらっしゃい」
呼び鈴を押すと、祖母がドアを開けた。元気そうな彼女の笑顔を見てほっとした。けれども、まるで少女のような無垢な笑みに違和感があった。

「元気、来たわよ」
 母が少し声を張って祖母に伝えた。
「あけましておめでとうございます。おばあちゃん体調どう?」
 僕はいつもより大きな声で訊ねた。祖母は、ここ数年で耳が遠くなっていた。

「あら、いらっしゃい。お茶でも飲んでいって」
祖母に招かれ、部屋に入る。床に洗濯物が丸めて置かれてあった。シンクには洗い物が残っている。几帳面な祖母にしては珍しい。

「どこにいっちゃったのかしら……わたしのおはじき全部とられちゃったわ」
ヤカンを火にかけながらキッチンをしばらくうろついていた祖母が、湯呑みを持ってきた。
「今日はもう学校おわり? はやかったわねえ」
祖母は、湯呑みを僕の前に置く。中を見ると水が入っていた。
おばあちゃん、お茶は? 
訊ねると、あらあらと祖母は声をあげて笑った。

「ほんと、高橋さんしゃっくりがぜんぜんとまらないんだから。おかしくって」
あまりにも大きな声で笑うので、つられて僕も笑った。隣の母は、黙って水に口をつけた。
気づくと、祖母が真顔になっている。まるで別人のような無表情で、僕の目を覗き込む。

「おばあちゃん……どうしたの?」
祖母の姿をした他人のように思えた。彼女はしばらく無言で僕を見つめた後、口を開いた。
「あなた……だれ?」

それから祖母の元に、ひとりで通った。
僕のことを忘れてしまった祖母と、会話を重ねた。
ものごころついてから、今に至るまでの僕と祖母との思い出を頭から順に話していくことにした。

「おばあちゃん、初めて海に釣り行ったときのこと覚えてる? いきなり大きな魚が釣れてびっくりしたよね」
僕の言葉に耳を傾けていた祖母が、ちがうわよ、と訂正した。
「ほんとむかしから、うろ覚えばっかりなんだから」
「そう?」
「魚が釣れたのは、海じゃなくて湖よ」
「おばあちゃん、海だって」

やはり忘れてしまったのか、と気落ちしながら昔のアルバムをめくった。
すると、湖上のボートで釣り竿を手にした祖母と僕の姿があった。
思わず息を呑んだ。
僕らが行ったのは、確かに海ではなく湖だった。

僕もありとあらゆることを忘れ、記憶を書き換えていた。
初めて買ってもらった玩具は青い電車ではなく、赤い車だった。
近所のファミレスでよく食べていたのは、フレンチトーストではなくパンケーキだった。
忘れていく祖母に向き合いながら、僕はいろいろなことを思い出していった。

祖母は僕のことを忘れてしまった。
駅から家までの道も忘れてしまった。
自分の年齢も思い出せなくなってしまった。

それでも彼女が、最後まで忘れないものたちがあった。
お気に入りのワンピースのこと。迷子になって怖かったこと。仲が良かった幼なじみのこと。はじめて銀座にいった時のこと。愛していたけれど結婚が叶わなかった男の人のこと。娘が生まれてきた日のこと。
余計な記憶が失われていく代わりに、大切な思い出だけが花のように咲いていった。

忘れていくことは残酷で、悲しいことだ。
けれども、僕はその祖母の姿をどこか羨ましく思っていた。
いま僕の手元にあるスマートフォンには、二度と連絡しない人の電話番号や、見返さない写真、用済みのメールが溢れている。

それでもスマートフォンを買い替えるたびに、時間をかけてそれらを移し替え、クラウドに保存する。何ひとつ記憶を漏らすまいと、必死に生きている。
気づけば何が本当に大切な思い出かも、わからくなっていた。

この体験が、僕に小説を書かせた。
記憶を失っていく母と、そのひとり息子の物語だ。

ここから先は

416字

川村元気『物語の部屋』メンバーシップ

¥2,000 / 月
このメンバーシップの詳細