エッセイ「私の性別」

あらかじめ予告しておくが、この文章は私の頭の整理とリハビリのためであり、まとまりがなく自分でもうまくかみ砕ききれていない。

私は長いこと、女の子らしさから逃れたかった。
かわいらしくないし、男言葉とやらもつかう。口は悪いし、小中投げかけられたなって、いっつも殴り合いのけんかをしていた。でも、そんな私を当時の私は大好きだった。だから、女の子らしく淑やかに振る舞えという母のいうことには従いたくなかった。やっと確立した私の振る舞い方をすべて見失うような気がして、男言葉も殴ることもやめなかった。後ろめたくはあったから、親の見えないところでこっそりと。

私が自身の持つ女性性が嫌になったのは、小学校六年生の時であった。第二次性徴の発達が、恐ろしく早かった。わかりやすく言うなら、胸が大きいのだ。パンチと男言葉で武装したって、私は女だった。一年か二年かけてつかんだ男の子っぽい私とその友達コミュニケーションを、二つの丸みがぶっ壊した。下着が透けないように気をつけなきゃいけない。胸元が見えないように服装・ポーズに気をつけろなんて言われるのが心底嫌だった。私個人の前に「女」が来てしまうことが嫌だった。
私は小学校一年生のころからいじめられていた。私のちょっとおかしなふるまいをからかう言葉を、上級生、下級生、同級生から投げかけられた。クラスの一握りだけ、コミュニティの一部だけが、私のことをののしる目で見ていた。けれど、胸が前へ出始めただけで私への好奇の目はぐんと増えた。何がいいのかわからないけど、今までいじめを傍観していたクラスメイトは私の胸を触ろうとしてきた。しばらくすると、いやがらせとして胸のことを話題に出すいじめが出てきたのもこのころからだった。小学校の小さな箱庭の中で私はただ女性性だけを浪費されているような気がしたのだ。

中学でもガサツなコミュニケーションで友情を確立した。男言葉はもっと口が悪くなった。友達はみんなオタク男子だった。いまだにアニメやゲームのことで盛り上がるようなやつらと仲良くなった。164センチ以上の集団に、150もいかない私がいた。セーラー服は私だけだった。女の子で、クラスで少しだけ話すような子はみんな私を女の子としても、男の子としても扱っていなかった。ふわふわで華奢でかわいらしい彼女たちにはなれなかった。ガサツで、ふとっちょな体だけ女のやつができた。そんな中途半端な私を、やつらは受け入れてくれた気がしている。大好きなコミュニティだった。だからこそ、私が「女」であることに苦労した。まず距離感。完全に男女だからっていう、微妙なものがあった。次に校外学習や修学旅行のグループ活動で一緒に組めなかった。修学旅行の際には女の子たちの中から完全に浮いちゃったから、ずっとぼっちだった。ディズニーなんて地獄だった。いつかやり直したいな。最後にいじめ。私の胸のことを言ってくるやつが増えた。もう、気持ち悪くてたまんなかった。きもいきもい無理ってずっと泣いてた。こんな時だけ女々しいのかよ、なんて心で自分のことをあざ笑った。同時にいじめてくるやつらは私のことを「ビッチ」と呪詛のように言ってきた。私だって、私だって女の子といればよかったのかな。私が男好きだとかずっと言われた。私は、男友達とただ友達でいたかっただけなのに。胸をさらしでつぶすことも考えた。男の子に生まれたらもっと人生楽だったかな。当時は、大金持ちになったら胸切断手術とかできないかな、なんて夜な夜な考えていた。この時の私は自然体で無理をしていたのかもしれない。矛盾でしかないけれど、そう思う。感性は、世間一般の女の子だった。

高校に入ってからというもの、殴るとかそういうコミュニケーションは一切しなくなった。新しくできた友達はみんな女の子だった。そしたら、今までの「男子用の私」は完全に必要がなかった。かっこいい女の子もクラスにはいた。ツイッターでジェンダーレスなんて言葉が目に付くようになったのもそのころだった。LGBTQだとか、そういったことがよく話題に上がった。自分の心の性別を重視する、いい世の中だと思う。大学生になってホルモン注射とか、そんなことも学んだ。どれも、ピンとこない。かわいいスカートも履きたいし、体の男性性は私は欲しくなくなった。男子か女子かといわれたら、女子を選ぶまで。男性性にうたわれるごつごつして筋肉質がかっこいいより、女性性にうたわれるスラっと華奢で、丸みのある私のほうがあこがれたくなったのだ。最近では、メイクをして女の子っぽくエンジョイしている男性もいるし、男の子の恰好をした女性もいる。みんな魅力的には見えるが、私がなりたいとは思わなかった。

ここまで語ると、「じゃあ女の子でいいじゃん」って言われてしまうかもしれない。けど、ちょっと違う。たしかに、女の子としての心が強いのは事実だと思う。スカートが広がるところがかわいくて好きだとか、甘いものが好きとか。でも同時にお城とか見るとわくわくするし、車のおもちゃで遊ぶのも大好きだ。ボーイッシュな女の子になりたいわけじゃない。高校と大学の合わせて7年で女の子の楽しさも知ったけど、小学校と中学校の5年くらいで男の子のコミュニティの楽さ、を知った。なんか、100女の子です、に自信が持てないのだ。多分、恋愛の性別は完全に女だと思う。なんとなくだけど。言い方に違和感しかないけど、私は性別をフィルターではなくタグで見ている。世の中は多くが性別が大きなフィルターだと思う。女の子だとおしとやかでかわいらしい、男の子だからがさつで家事がてんでダメ、まだまだ時代錯誤が残るこの国の考え方だと思う。だから「家事をする男子」なんてのがインスタでバズるのだろう。私は友人をタグ「アニメ好き」「得意科目:数学」と同列に性別をカテゴライズしている。インターネットと違うのは、タグを無限に増やしているところだ。私は自分の性別を「半分以上は女の子、半分以下で男の子※ただし割合は日替わり・相手による」と認識している。世の中に最近そんな人が増えた。私の心は男の子か女の子か、ジェンダーレスか、その他もろもろいろんなジェンダーに当てはめるならきっと女性だ。けれど、なんだか少年の心や、めんどくさい思いを抱えているところを忘れないでほしい、と思ってしまう。私の小学校時代の影響か、「女の子扱い」ばかりをされていると苦しくなってしまうのではなかろうか。まあ、このアカウントを知っている知り合いはそんな嫌な扱いをしないから、このアカウントを教えているのだが。
結論が迷子になってしまったが、要するに私の性別をタグで例えるなら、女の子と、男の子ほんの少しを貼る、みたいな見方をしてほしいな。

最後に
こんなことだらだら書いている途中でツイッター(現Xとやら)でLGBTQの自認が中二病の引きずりみたいなもんを見て死んでしまった。たしかにそうかもしれない。それはここまで読んでくださった方の判断に任せよう。私自身だいぶアイタタタタな人間なので。けれど、ここに書き留めた葛藤を乗り越えているということだけは覚えていてほしい。

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