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良い思い出を不意に失った話

かなり前の話だが、ふと思い出したので執筆してみる。


筆者は3歳くらいまで団地で育った。

同じ階にはAさんと言うおばさんが住んでいて、母曰く、筆者はAさんに相当良くしてもらったらしい。

団地の近くには巨大ショッピングモールがあり、内部に屋内プール教室があった。そのプールは上階からガラス越しに見下ろすことができる構造になっており、そこにはベンチとセブンティーンアイスの自販機があった。筆者はいつもAさんにそこに連れて行ってもらい、「あいすむくむ!」と言ってアイスをねだっては買ってもらっていたそうだ。

筆者が物心ついてからしばしばそんな自分自身の可愛らしいエピソードを母から聞き、Aさんに対する親近感が醸成されていった。

筆者が引っ越してしまってからAさんに会う機会はなかったが、母は連絡を取り続けていたようで、何故か二十数年越しのタイミングで会うことになった。

みなとみらいをぶらぶらしながら食事することになり、筆者は昔のエピソードを思い出して、今度は自分がおごってあげようとか思いながら、母と共に待ち合わせ場所に向かった。

Aさんに会ってみると、なんとなく風貌を覚えているような気もしたが、写真で見たAさんを現実の記憶と錯覚して覚えているような気になっていたのかもしれない。

とても明るい雰囲気で話しかけてくれて、再会して良かったなと思った。


しかし、徐々に妙な雰囲気を感じ始めた。


お互いの話をする中で、筆者の話の節々でマウントを取ろうとしてくるのだ。

「どこ」で「なに」をしている(いた)、の「どこ」や「なに」が社会的に認められているものであると、そこにいちいち突っかかってくるのである。

こちらは過去の感謝の気持ちを込めて会いにいっているので、当然そういう姿勢で話しているのに、何故か戦おうとしてくる。

筆者の話に割り込むように、葉山に別荘があるとか、証券会社と付き合いがあるとか、英字新聞を読んでいるとか、話題とズレた突発的な自己主張を繰り広げた。

きっと筆者のことを好きでいてくれて、興味を持って話を聞いてくれると思っていたので、とても残念であった。

母の顔を見ると十分に状況について察知しているように見えた。

きっと母はAさんが「久しぶりだね、嬉しいね!」、「成長したね、凄いね!」といったノリで来るものだろうと想定していただろうし、筆者がそのノリのAさんと絡んで楽しそうにしている絵を想定していただろうから、対抗心むき出しのAさんとそれに当惑している筆者を見て残念に思っただろう。

筆者はそのことがとても不憫で残念だった。

同じ団地で過ごしたはずで、ましてや世代も違うのに、何故こうなってしまったのだろうか。

Aさんが変わってしまったのか、もともとこういう人だったのか、筆者の思い出はヴァーチャルなので余計にわからない。

思い出の1ページを開いたことで、そのページが抜け落ちてしまった。

帰り道も、それからも、もう母とAさんの話をしていない。

抜けたページを汚すことなく、スルーした方が良いと思ったからだ。

Aさんと会った記憶はモヤモヤしたまま蓋をして、時々そのモヤモヤが蓋の隙間から顔を覗かせては微妙な気持ちになる。

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