言語が消滅する前に(著:國分功一郎、千葉雅也、幻冬舎新書)
國分功一郎さんと千葉雅也さんの対談集。計5回の対談をまとめて1冊にしたもの。各対談のテーマは個別に設定されていたのだが、どの回も「言語」を主題として扱っていたことが(結果として)共通している。
本書で私が特に面白いと感じたのは、「エビデンス主義」と「精神的な貴族性」を対比して議論している件だ。
エビデンス主義とは
ここでいうエビデンス主義とは、「客観的な指標や情報を根拠に言動や意思決定をすべき」という考え方のことを指す。今の世の中ではエビデンス主義がどんどんと強まっている。ある主張は、その主張を裏付ける客観的な情報(=エビデンス)がないと、説得性を持てないという考え方を多くの人が自然と受け入れ始めている。ひろゆきの「それってあなたの感想ですよね」というフレーズは、その考えを端的に表している。
本書で触れられているが、エビデンス主義は民主的な考え方だ。何故なら、「客観的な指標や情報を根拠にする」という事は、その定義からして「その根拠を参照すれば誰もが同じように考え、意思決定ができる」という事に繋がるからである。つまり、主体(考え、意思決定する人)の優劣は論点にならない。
これはある面では素晴らしいことで、仮に権威を持つ集団がでたらめな主張をしても、権威を持たない集団がその主張が無根拠であることを指摘し、打ち崩すことができる。民主主義的に運営される社会において、民主化を推し進める考え方をそう簡単に否定するべきではなく、本書でもエビデンス主義のメリットはしっかりと認められている。
一方で、エビデンス主義が行き過ぎることによる問題点も本書では指摘されている。エビデンス主義はその客観性が大きなメリットなわけだが、一方で客観的に測れるものしか見ていないということでもある。現実社会は複雑で、人と人との関係性やコミュニケーションも複雑だ。客観的に測れるものだけで完璧に要素分解して現実社会における現象を説明し、根拠づけることは無理筋である。エビデンス主義を徹底してしまうと、見えていないものを無視することになる。これがエビデンス主義が行き過ぎることによる弊害だ。本書では、この点が例えば以下のように語られている。
言葉はエビデンスと比較して客観性という観点では劣る一方、多義的で、奥行きがあり、現実の複雑性を(その一部であっても)内包する。それ故、エビデンス主義が落としてしまう情報を含んでコミュニケーションすることができるが、その言葉の価値が認められにくくなっているということである。
精神的な貴族性とは
本書では、エビデンス主義と対比される考え方として「精神的な貴族性」というものが語られている。これは上述した言葉の作用と深くかかわっている考え方だ。
エビデンスでは表現しきれない、落ちてしまうものを、言葉はその内に含んでコミュニケーションできるということだった。しかし、言葉によるコミュニケーションは客観性が担保されにくい。例えばAさんがBさんに何かを説明し、Bさんが納得したとしても、その「Bさんが納得した状態」を全て客観的に説明することはできない。
客観的に説明できない部分があるということは、エビデンス主義に比べると民主的ではない、ということである。要は、言葉を上手く扱える人は言葉の価値を上手く引き出せるが、そうでない人は価値を引き出せない、という格差が生じてしまうということだ。
故に、エビデンス主義の行き過ぎのカウンターバランスとして言葉の価値を認めるということは、言葉の価値を引き出す力の格差を認めるということになる。言葉の価値を引き出す力が高いことを、本書では「ある種の貴族性」「精神的な貴族性」と表現している。言葉が人間の精神と一体不可分であり、人間の意識や認識の仕方、言動や思考様式等、あらゆることが言葉=言語に大きく影響されていることを踏まえた表現である。
これはつまり、両者の間でとても難しいバランスが求められるということだ。エビデンス主義の行き過ぎは良くない。一方で、言葉の価値を認めるとある種の格差が生じる。エビデンス主義はやめて言葉の価値を積極的に認めていこうという主張は、行き過ぎたトレンドのカウンターバランスとしては有効だが、その主張がメインストリームになり、エビデンス主義の逆行形として行き過ぎると、これまた大きな弊害が起こる。一義的な答えが出る問いではないのである。
仕事との関連
エビデンス主義と精神的な貴族性。後者は言葉の価値を認めることと言い換えても良いが、この2つは仕事にも深く関連している。
仕事においても、最初はエビデンス主義的に教育を受け、それに習熟することが是とされる。OJTで仕事のやり方を覚え、研修では営業の型や財務諸表の読み方といった「学べば誰もが一定のレベルでできるようになる」ことを覚え、周囲への説明や報告は客観的な情報を添えて「ロジカルに話す」ことが求められる。これらは全て、仕事の経験がゼロの新人を一人前の社会人にするための「民主的なトレーニング」である。
しかし、ある時から自分なりの言葉、言葉の唯一性を獲得しないと発揮できる価値が高まらなくなってくる。これは当たり前の話で、「民主的なトレーニング」は民主的であるが故に、誰もが受けられるし、誰もがある程度同じ水準に達することができる。その先に行こうとすれば、「あの人がいるからお客さんが納得する」「あの人がいるから組織が動く」「あの人がいるから課題が解決する」という存在になる必要がある。仕事は1人で進めることはなく、周囲と協働して社会的・組織的に進めるものだ。人と人とが協働して動くわけだから、そこには言語、コミュニケーション、そこから紡がれるストーリーが介在する。
経営者には言葉にうるさい人が多く、また自分が話したり書いたりするものにも非常に強いこだわりを持つケースが多いが、これは言葉こそその人の価値の源泉であるということを強烈に理解しているが故の性質だ。唯一性の高い言葉でステークホルダーと話し、合意を取り付けて仕事を進めていくことは、経営者の重要な仕事と言える。
「言語の唯一性の獲得」という壁を超えるのは結構難しく、部下がいても引き上げるのがなかなか難しいというのが、私の個人的な感覚だ。なぜこの壁を超えるのが難しいかというと、事後性が高いからである。事後性が高いとは、「できるようになって初めてわかる」という意味だ。「民主的なトレーニング」では、「これを覚えたらこれくらい仕事ができるようになりますよ」ということがある程度予測がつくようになっている。一方で、その先に行くためには「予測はつかないがやり続ける」要素が必要になる。エビデンス主義的視点から見ると、これは上手く予測がつかないので先が見えないように感じてしまい、途中でやめてしまう人が多い。上司はそこをケアしながら、上手く引き上げていく必要があるが、これは大変な労力を要する。
また、ビジネスにおいてもエビデンス主義と精神的な貴族性の双方が重要だという点は変わらない。高い価値発揮を追求するには後者が必要という点は事実だが、だからといって前者が不要であったり、軽視してよいということではない。エビデンスすら揃えられなければ、仕事はそもそも進められない。要は両者のミクスチャーが必要という話であり、前者ばかりを強調してはいけないという話だ。
ビジネスも社会的な営みであり、突き詰めていくと人文的アプローチが非常に有効というケースは多くある。本書に収録されている対談は学びの宝庫だ。
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