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まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書(著:阿部幸大、光文社)

本書を一言であらわせば、「論文執筆のマニュアル本」だ。但し、ただのマニュアル本ではなく、凄まじいマニュアル本である。本書の「凄まじさ」を次の3つの観点で言及してみたい。

・徹底してプラクティカル
・徹頭徹尾、全ての文章が「読めばわかる」ように書かれている
・「論文を書くことの根源的な意味」と、「論文の書き方」を接続している

徹底してプラクティカル

マニュアル本は、「書かれていることをそのまま実践すれば、読者は書かれている内容を再現できる」ことが前提にある。例えば、料理のレシピ。書かれている通りに材料を準備し、調理すればレシピ通りの料理が完成する。

しかし「知的生産」に関するマニュアル本(と称する本)は、「書かれていることをそのまま実践すれば、読者は書かれている内容を再現できる」というマニュアル本としての前提が担保されていないことが少なくない。これにはおそらく2つの理由がある。

1つ目は、知的生産においては(料理とは異なり)全く同じ状況・コンテキストを作ることができないため、汎用的で再現性の確保された「マニュアル」を提示することのハードルが高いこと。

2つ目は、「思考」と「技術」を分けることが難しいこと。知的生産において、この2つは実際の活動としては密接不可分であり、同時進行もしくは常時往復しながら進む。なぜなら、知的生産において「思考」も「技術」も言語を用いて行うものだからだ。故に、「技術」だけを切り分けて語ることが通常は難しい。

本書は、「知的生産」に関するマニュアル本であるにもかかわらず、「思考」と「技術」を分け、「技術」の部分をうまく抽出し、「書かれていることをそのまま実践すれば、読者は書かれている内容を再現できる」というマニュアル本としての前提をクリアしている。その上で、これ以上ないくらい徹底的にマニュアル化され、プラクティカルに書かれている。これが、本書が優れているポイントの1つ目である。

徹頭徹尾、全ての文章が「読めばわかる」ように書かれている

マニュアル本であるからには、読者が読んでわかることは必要条件だ。

再び料理のレシピを例にとれば、どの食材をいつのタイミングでどのように調理し、どんな調味料をどの食材に対しどの程度使うのか、ということが読んでわかるように書いていなければ、読者はその料理を作ることができない。

こう考えると当たり前のことなのだが、しかし「知的生産」に関するマニュアル本(と称する本)はこの条件もクリアしていないことが多く、「そもそもこの本を読むためのマニュアル本が必要なのではないか」と思わせるような本も存在する。

その点、本書は論文を書こうとする者であれば誰でも「読めばわかる」ように書かれている。いや、私のように論文を書く想定のない人間すらも、読めばわかるように書かれている。文章の摩擦係数が低く、おそろしく読みやすい

これはマニュアル本として非常に優れているということだ。マニュアル本は、まず読者に理解されなくてはならない。そうしないと、書かれていることを再現させることなどできない。

私は本を読む時に傍線を引きながら読むことが多い。常に右手にはペンを持ち、書かれていることを自分の頭の中で構造化しながら、本質的な個所をピックアップするために傍線を引く。

しかし本書は、1度目に読んだ時には傍線を引くことができなかった。本当に感銘を受けた第9章と第10章に、1か所ずつドッグイヤーを付けたのみである。章立てやパラグラフが綺麗に構造化され、全ての文章がわかりやすく無駄なく書かれているうえ、重要な箇所は太字でハイライトされているが故に、概要を掴む1度目の読みでは改めて構造化する必要がなかったのである。

本書自体が、「機能的な文章とはこう書くものである」という手本になっている。それくらいわかりやすく書かれている。これが2つ目のポイントである。

「論文を書くことの根源的な意味」と、「論文の書き方」を接続している

本書の第8章までは、寄り道なしで「論文の書き方」にフォーカスし、そこでは常に「技術」の話だけを取り上げていた。

その上で、第9章・第10章は「発展編」という位置づけで、論文を書く意味や研究の意義、個人の人生における研究の位置づけといった、「論文は書けたとして、その上で何を考えるか」をテーマとする独立したパートとして書かれている。

これはある意味で、一度「思考」と「技術」を切り離した後に、もう一度その双方を統合しているということだ。しかし、単に統合するだけで終わらないのが本書のすごさである。

確かに一度、「思考」と「技術」を統合するのだが、著者はその上で最後に「思考」すらも「技術」、つまり「論文の書き方」に繋げている。自分が論文を書く意味、研究を行う意味は何なのか。こういった問いを自分自身に投げかけ、自分なりの答えを得ることがひいては「より良い論文を書く」ことに繋がる。第8章までに説明してきた技術論が生きてくる。そういう構造で、「論文を書くことの根源的な意味」と、「論文の書き方」を接続している。

「発展編」はプラクティカルな第8章までの内容とは独立したパートだと説明されているが、第9章・第10章で問われていることすらも、最終的にはプラクティカルな論文の書き方に繋がっていると私は捉えた。これも「マニュアル本」として、本書が優れているポイントである。

最後に:ビジネスにおける問題解決との対比

本書で示されている知的生産の技術論は、ビジネスにおける問題解決と対比すると、論文を書く予定のないビジネスパーソンも本書をグッと手元に近づけて読むことができるのではないかと思う。私は元々、ビジネスにおける問題解決は多分に人文学的であると考えており、人文学的観点から書かれている本書からは大きなヒントが得られると考えている。

詳細は別の記事で書いてみようと思うが、例えば論文の「アーギュメント」は、問題解決の文脈では「イシュー」である。単に「課題」や「問題」と呼ばれることもあるが、組織がその時点で最も向き合わなければならないものを特に「イシュー」と呼ぶ。

「アーギュメント」は飛躍して見えるもの、「パラグラフ」は飛躍を論理で埋めるものと本書では説明されているが、「イシュー」も人間の直感力を活用した飛躍の結果として掴むことができるものであり、その飛躍は「ロジック」で検証し、説明していく。

本書によれば、「アーギュメント」はアカデミックな価値を持つ必要があり、アカデミックな価値は引用と批判によってつくられる。そして、引用と批判により、「アカデミックな会話」に参入し、会話を更新することでアカデミックが価値が作られる。ビジネスにおける「イシュー」は、組織や事業が置かれているコンテキストに入り込み、そのコンテキストにおいて「もし解決したら最もインパクトの大きい」ポイントを特定することで見えてくる。コンテキストを無視した「イシュー」はあり得ず、仮にそれを「イシュー」と呼んだとしてもそれは価値が低い。

論文において、「パラグラフ」はパラグラフ・テーゼを持つ必要がある。アーギュメントをパラグラフで論証していくが、そのパラグラフは1つ1つがテーゼを持っているという入れ込構造になっている。問題解決における論証も、「イシュー」を要素分解し、1つ1つの要素を検証するための「論点」を設定していく。「論点」が全て検証されれば、「イシュー」の価値と解消方法が見えるよう、構造化されていなければならない。

このように、本書の内容と対比させて問題解決を考えてみると、問題解決を直接考えているときよりもクリアにポイントが見えてくる。私のような論文を書かない実務家にも学ぶところが多く、強くお勧めできる1冊だ

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