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必読書150(著:柄谷 行人、岡崎 乾二郎、島田 雅彦、渡部 直己、浅田 彰、奥泉 光、桂 秀実、太田出版)

2002年に出版された重厚なブックガイド。文社会科学・海外文学・日本文学からそれぞれ50冊づつ選定されており、計150冊。1冊1ページの割合で各書へと導く「誘い文」が記されている形式で、取り上げられている本は重いが、本書自体はパラパラと軽やかに眺めていける。

本の帯には「現実に立ち向かう知性回復のための世界『教養』遺産」とあり、太田出版のホームページには「現実に立ち向かう知性回復のために本当に必要なカノン(正典)を提出し、読まなくてもいい本を抑圧する、反時代的、強制的ブックガイド」と紹介されている。

ブックガイドは、そのブックガイドを作るにあたってのスタンスが最も重要であるというのが私の持論だ。この世界に「絶対的に正しい決定版のブックガイド」というものは存在しえない。素晴らしい本は多く書かれているが、そのすべてを読み尽くすことは不可能であるし、「素晴らしい本の中でどの本を選択して読むべきか」という問いに対する答えは、人によって大きく変わる。故に、どんなに偉い学者や作家が選んだとしても完璧なブックガイドは作れない。

ブックガイドは不完全にならざるを得ない。とするならば、そのブックガイドが誰に向けて書かれたものなのか、何を目的とする人にとって参照すべきブックガイドなのかという絞り込みを行い、「とある人たちにとっては、非常に有効なブックガイド」という位置づけを獲得していくのがブックガイドの目指すべきところだと私は考えている。つまり、ブックガイドを作るにあたってのスタンスが肝要ということだ。

では本書のスタンスはどういったものだろうか。私の理解では2つ、重要なポイントがある。1つ目のポイント、「現実に立ち向かう」という点である。柄谷行人氏による序文には、次のように書かれている。

われわれは今、教養主義を復活させようとしているのではない。現実に立ち向かうために「教養」がいるのだ。カントもマルクスもフロイトも読んでいないで、何ができるというのか。わかりきった話である。われわれはサルにもわかる本を出すことはしない。単に、このリストにある程度の本を読んでいないようなものはサルである、というだけである。

必読書150 序文より抜粋

柄谷氏は、教養を現実離れした衒学的な思考や議論に留まるものと捉えるのではなく、今私たちが直面している現実に立ち向かうため、生き抜くためのいわば「武器」として捉えるべきだと言っている。

「武器」としてのブックリストか、「お楽しみ」としてのブックリストか。この違いは大きい。本書で挙げられている150冊は古典に属するものが多いが、古典は現実を見通すうえでの本質が折り畳まれており、コンテキストが変化してもその新たなコンテキストに則したサバイバルツールが引き出せるからこそ、長い期間読み継がれてきたという側面がある。現代というコンテキストにおいても有効性の高い「武器」としての名著を選定している点が、本書の大きな特徴の1つと言える。

2つ目のポイントは、「カノン(正典)」を取り上げてようとしているという点である。これは1つ目のポイントと密接につながっている。人間は言葉に規定されている存在だ。現実も言葉を通して見ている。現実を見通し、立ち向かっていくためには、「言葉」で現実を記述し、解体し、議論を通じて突破口を導き出していく必要がある。

本書で「カノン(正典)」として提出されている各書は、現実を記述し、解体し、理解するための「言葉」や「言葉の使い方」を提示している。その提示されている「言葉」や「言葉の使い方」が根源的であるからこそ、「カノン(正典)」とされているのだ。

いわばこれらの書は現実に立ち向かっていく際の「共通言語」であり、この共通言語なしで一から自分の頭だけで現実を理解して立ち向かっていこうとすると、あっという間に寿命が尽きてしまう。まずは共通言語を理解して、現実を語るためのツールを手にする。その上で、現実への立ち向かい方を、他者と議論しながら紡いでいく。これが正攻法である。「カノン(正典)」に立ち返ることは懐古主義でも現実逃避でもなく、ある意味では最も現実に真摯に向き合おうとすることに繋がる。

本書はこの2つのポイントを踏まえて書かれている。ぱっと見は小うるさい教養書を並べたブックガイドに見えるが、その実を見ると非常に実践的だ。全てを読むのはとても叶わないだろう(その意味では私もサルである)。しかし、1冊でも本気で取り組めば確実に有効な武器となる。そんな本が取り上げられている。


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