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朗読と吃音

アマンダ・ゴーマンの発する言葉の力強さについて考えさせられる。そして前向きさ、誠実であること。他にも、朗読のあり方について。諸外国での詩の位置づけ。吃音について。

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_61cd0671e4b04b42ab713208

大統領就任式での朗読をみた。素朴なスピーチのような朗読だった。奇をてらった演出などはなく、大仰さや、芝居じみた抑揚とも無縁だった。だからといって無表情な朗読というわけでもない。身振りがあり、左右の聴衆をしっかり見つめて言葉を届ける。


わたしは朗読がへたくそなので、ほんとにすごいなあと思いながら見た。詩の内容によって(もちろん朗読する者によっても)朗読のあり方は多様なのだろうが、これほど誠実な印象をもつ朗読は、なかなか見ないように思う。


もちろん時と場合によって、というのも大事な要素。コロナ禍の大統領就任式、民主主義の重要性について書いた詩を読んでいるのだから、その言葉がちゃんと聞いている人たちに届く朗読のかたちに自覚的なのだろう。


アメリカの大統領就任式には、詩の朗読がつきものらしい。これまではアメリカを代表する詩人が登壇してきたため、アマンダ・ゴーマンは歴代最年少だそうだ。詩が諸外国の社会でどのような位置づけにあるのか、興味がある。


米国だけでなく、韓国でも詩人の社会的ステータスは高いように思える。日本の商業詩人のような売れっ子詩人がおり、詩集がベストセラーになることもあると聞いたことがある。かたや日本で詩集といえば売れない本の代名詞だ。意味不明な言動を「ポエム」と言って馬鹿にする風潮すらある。


一方で状況の変化もある。最果タヒ、文月悠光らのジャンル横断的な活動が20代、30代の表現する人たちに影響を与えているように見える。沖縄でも詩の書き手が美術、写真、アパレルなどと交わり、相乗効果、化学反応を生んでいるように思う。


以前の報道で、アマンダ・ゴーマンがかつて吃音に悩んだ点でバイデンと共通しているという記述があった。わたしは吃音ではなかったが、幼い頃から他者と向き合うと言葉がまったく出てこなくなることがあった。恐怖感を抱えていた。


詩を書いていると、言葉を素敵に使いこなすプロだと認識されることがある。期待されても何も出ないのに。わざわざ日常言語から離れた、詩などという表現形態を選ぶ人には、何かしら選択の背景、理由がある。詩人というのは言葉を操るのに苦労している人、言語によるコミュニケーションが苦手な人なのじゃないか。

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