時代のはざまを掘り起こす
杉本真維子さんが担当している詩の時評「詩はいま」が全国の地方紙に連載されています(共同通信の記事で、新聞に毎月載るかどうかは地域の新聞によって違うみたいです)。わたしは沖縄の新聞で読んでいます。
前回の記事で萩原朔太郎賞の話からそれて「詩はいま」について書いた流れもあって、こういうかんじのあれです。前回の記事は下(↓)でございます。
4月の初回、冒頭で尾花仙朔さんとの縁にふれて「詩の未来をつなぐ」ということについて書かれています。
このかん、天沢退二郎さんらの訃報がつづいたことについての言及です。かつて駆け出しの時代を経験した中堅の詩人として、現代詩のシーンを牽引する杉本さんの言葉と考えると重みを感じます。
「一時代を築いた」といわれるほどの詩人となれば、その遺産ははかりしれない規模になります。死後に読まれ、見いだされていく価値や魅力もあるでしょう。
ただそういったプレイヤーがうみだされ、はぐくまれる詩の土壌は、いまの現代詩のシーンに存在しているのか、ありつづけているのだろうか、という点についても、ある程度のキャリアをもった書き手となれば視界に入ってこざるを得ない問題なのだと思います。
時評の対象としては、2023年のH氏賞受賞作、小野絵里華さんの詩集「エリカについて」(左右社)、立木勲さんの「ウムルアネケグリの十二月」(書肆子午線)などについて評しています。
それぞれの評言は単純に素敵なで、それらの作品をぜひ読んでみたいと思わせるものです。一方で上記のような観点を踏まえると、それらの作品に対する視線もより後続世代を含めたあらゆるプレイヤーの美点を見いだし、より広く伝えて詩壇を耕そう、受容する側をふくめて刺激していこうという思いを感じます。
いっぽう、女性の書き手に対する視線にはより強い意志を感じます。10月の「詩はいま」では棚沢永子さん「現代詩ラ・メールがあった頃」(書肆侃侃房)と、たかとう匡子さん「私の女性詩人ノート3」(思潮社)を取り上げています。
時代を区切り定義する、提唱することは、それぞれのシーンによって求められるタイミングがあるように思います。女性詩の時代論は、まさに今なのではないでしょうか。
このタイミングで出版された2冊をとおし、時代を転換した地点はどこだったのか、時の流れに埋没させるべきでないことがらとは何なのか、といった重要なことが明確に示されています。
現在進行形ではないが、評価が既に定まったものでもない、その中間にあるものを埋もれさせずに形あるものとして見せてくれる。そんな時評を読むことができるのは幸運だと思えます。時評とは何か、時評でなすべきものとは何なのか、ということを考えさせられます。
★★★詩誌 のらねこポスト 最新刊★★★
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?