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「子どもを決して独りにしない」という学校の覚悟が家族や子どもに届いているかどうかが問われている

 「不登校支援を問い直す」勉強会で、ある家族の独り言を聴いた。

 我が子が不登校になったとき、「なぜ、不登校になったのか」と問うと、家族は自分たちを責めるばかりか、学校とのつながりが難しくなる。とりわけ、担任の𠮟責など暴力的な関係に子どもが巻き込まれている場合、最初に問うべきは、「家族以外の誰が子どもの味方になれるか、たとえ、同僚を敵に回しても子どもの味方になるにはどうすればよいか」という学校からのアプローチである。暴力的な関係に巻き込まれた子どもは、傷ついている。「子どもを決して独りにしない」という学校の覚悟が家族や子どもに届いているかどうかが問われている。お話をしていただいた家族のように、「先生の怒鳴り声が聞こえくる」という我が子の声に、「ほかの子どもも傷ついているのではないか」と考えることは、それほど簡単なことではない。さらに、「なぜ、不登校になったのか」と原因を探ることは、ときには学校に非をつきつける。学校が身構える前に、「子どもがしあわせに過ごすには、どうすればよいか」と、教育にも福祉にもひらかれた問いを共有できるかどうかが重要となる。

 協議の中で、学校の文化性が問題となった。
 
 一つには、学校は口頭でケース会議を行う点である。文書に残らないのである。だから、上手くいかなかったとしても同じ提案がなされてしまう。何が変化し何が変わらないのか、どんなことができるチームなのかが見える化していないのである。

 二つには、学校は、一発逆転、起死回生の解決を求めてしまう点である。問題を解決する誰か一人を期待するのである。問題を解決するのではなく、問題が整理されたり、取り組みやすい問題に変えたりするような、早急な問題解決を目指さないアプローチが共有できるかどうか。ケース会議に集まったメンバー一人ひとりができることを組み合わせて、事態をゆり動かそうとしていけるかどうか。小さな変化の地道な組み合わせが、解決の筋道をつくり出すという信頼関係に基づいたチームが形成できるかどうかが問われている。

 三つには、学校のため、クラスのためという正義に支えられている点である。教師の行動は、社会を守るための正義の行動だから、暴力的な行為をオブラートする意識が働いている。不登校になった子どもは、社会を挙げて守るべき存在であるととらえるように、最も苦しんでいる人を励ましたり支援したりするのではなく、支え守っていくことができるかどうかが問われた。

 

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