映画『毒薬と老嬢』から「怪物」、「病」、「差別」へと思考を広げる
今日、本屋さんで列に並んでいたんです。そしたら、後ろのエスカレーターからおばさんの大きな声が聞こえてきました。
「すみませーーーん!」
「すみませーーーん!」って。レジにいる店員さんみんな怖がって、対応を擦り付け合っていました。「ひどいなー。」って思いながら私も怖くて、音楽の音量上げていました。結局、若い男の店員さんが対応してて。そしたら、そのおばさんが店員さんに向かって、「トイレはどこだって言ってるでしょ!!!」って怒鳴ったんです。もう怖くて怖くて。絡まれたくないな、ちょっとおかしい人なのかな、なんて思ってしまったんです。
差別は良くないって口先では簡単に言えるけど、咄嗟に怖いと感じてしまうんだからどうしようもない。でも差別は良くないと感じる。そんな人に、コメディ映画『毒薬と老嬢』を見てほしいです。
この映画には、4人の精神異常者が登場する。まず、主人公の叔母(伯母?)ブルースター姉妹は12人の老人を殺している。この12人には共通点があって、みな独り身なのだ。なので彼女たちは、誰にも墓に入れてもらえない彼らを殺し、地下に埋葬してあげているのだ。あくまでホスピタリティの精神である。次は、姉妹の弟テディ。彼は、自分のことをセオドア・ローズベルト大統領だと思い込んでいる。最後は、主人公の兄ジョナサン。彼の容姿はフランケンシュタインのようで、彼もまた、人殺しなのだ。どう見ても、この4人は異常である。でも、なぜだかジョナサン以外、全く怖さを感じない。それに姉妹に感情移入までしてしまう。
この映画に、おかしな点がありませんか?
「フランケンって必要?物語ぐちゃぐちゃにならない?」って思いませんか?まあ、こう聞いてるのは、必要だったから言ってるんですけどね(笑)。
物語には悪役がいるもの(いない物語もある)。その悪役がジョナサン(フランケン)、ただ1人なんです。ジョナサンを絶対的な「悪」にすることで、その他の精神異常者(ブルースター姉妹、テディ)をおかしく見せていないんです。この映画が伝えたいことは「精神異常は悪いもの、怖いものではない」だと思いました。フランケンの生かし方すごいなーと、実感しました。そんなこと考えながら怪物について調べてみました。
ドラキュラが生まれたのはヨーロッパ中期、その時コレラや結核が流行していた。人々は知識がなかったので、その病で死んでしまった死体を埋めるたび、既に埋まっている死体を見ていたそうだ。その死体は以下のような状態だったという。
・口や鼻から黒い腐敗液が流れている。
・死体を包む白布は、その液で黒く染まっていた。
・ガスが溜まって、腹部が膨れ上がっていた。
・皮膚が縮み、爪や歯がむき出しになっている。
以上から、ドラキュラの特徴である、血を吸う、黒のマント、人肉を食う、長い爪や歯が生まれたとされている。
同様に、狼男も病から生まれた怪物である。3つ説が存在して、1つ目は多毛症説。2つ目は狂犬病説、これは1738年に出版された本にある、狂犬病にかかったオオカミが、70人もの人を襲ったという記述からきているのではないかという説。3つ目は狼化妄想説。ある農民が、13人を惨殺した事件の取り調べで、彼は「悪魔がくれた魔法のベルトが私をオオカミにした」という発言からきたのではという説。
病という、見えなく、明快でないものに人々は恐怖を感じるから「怪物」という見える「敵」を作ったのではないだろうか。こんなことを考えていると、『鬼滅の刃』が私の頭の中に浮かんだ。「人々はコロナウイルスという恐怖の対象を、鬼という怪物に見立てて、また、私たち市民を、竈門炭治郎ら鬼殺隊に投影しているのでは?」
黒人などの有色人種や精神疾患者が差別されているのは、「わからないモノ」からくる恐怖心によって起こっている。実際、本屋であった出来事も何をされるかわからないから怖かった。哲学者ムスバウムも、嫌悪感や恥辱感を排除することが、差別を助長すると言っている。なので私は、「わからないモノ」を可視化する対象を、有色人種や精神疾患者など、ヒトに向けるのではなく、『毒薬と老嬢』のように、怪物という空想上のものに向けることが出来れば、差別のない世の中になるのではないかと思いました。
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