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「ともに生きる」実践の広がりが、旧優生保護法の違憲判決をもたらしたー優生連事務局・障害者ヘルパーの若者の立場からー(池澤美月)


筆者 池澤美月(いけざわみつき)
優生保護法問題の全面解決をめざす全国連絡会 事務局
 2000年生まれ。2023年度より、宮城県仙台市にある訪問介護事業所で、障害のある人のヘルパーとして働いている。東北大学教育学部在学中から、優生保護法問題と気候変動を中心に、運動に取り組む。

はじめに

2024年7月3日 最高裁前

 2024年7月3日、最高裁で歴史的判決が下された。優生保護法下で不妊手術を強いられた人々が国を訴えた5つの事件について、最高裁が優生保護法を憲法違反・重大な人権侵害と認め、国に損害賠償を支払うことを命じたのだ。国側が主張し、争点となった「除斥期間」について、「本件各事件の訴えが除斥期間の経過後に提起されたということの一事をもって国が損害賠償責任を免れることは、著しく正義・公平の理念に反し、到底容認することができない。」とした。優生手術被害全国弁護団共同代表の新里宏二弁護士は「考えうる限り最高の判決」と評した。なお、判決とその評価については優生被害全国弁護団ホームページに詳しい。
 声をあげてきた人々の存在なしに、この判決を勝ち取ることはできなかっただろう。筆者は、大学1年生の頃から仙台で優生保護法問題に取り組み、現在、優生保護法問題の全面解決をめざす全国連絡会(以下、略称である「優生連」を用いる)の事務局を務めている。「ジェネレーションレフト」である私の視点から、優生保護法問題と、この勝訴判決に至るまでの運動について述べたい。


優生保護法問題とは

 優生保護法とは、「不良な子孫の出生を防止する(第一条)」目的で、特定の疾病や障害をもつ人に不妊手術を強いることを認めた法律である。日本国憲法施行後の1948年に成立し、1996年に母体保護法に改正されるまで続いた。この法律の下、約2万5000人が国から「不良」とされ、身体を傷つけられた。子どもをもちたいと思っても、もつことができない身体にされた。
 裁判で原告や弁護団が主張したり、運動の中でで言葉にしたりすることで定着した2つの表現が、被害実態をよく表している。まず、優生保護法による被害は手術時のみにとどまらず、「人生被害」である。例えば、東京の原告である北三郎(仮名)さんは、長い間、手術が国によるものだと知らず、親を恨み続けていた。さらに、パートナーが亡くなる直前まで、手術のことを言い出せずに苦しんだ。子どもがいないことによる差別があってはならないが、実際は、子どもがいないことで周囲から差別されたり酷い目に遭わされたりする人もいた。また、仙台の原告である飯塚淳子(仮名)さんは、手術そのものの影響に加え、加害を認めない国と対峙し続けるなかでPTSDと診断された。
 次に、優生保護法は「戦後最大の人権侵害」と言っても過言ではない。法の影響は個人への被害にとどまらない。社会全体に対し、優生思想を植え付け、障害者などを劣った存在とみなしたり、命を選別したりすることにお墨付きを与えた。今もはびこる差別や、社会的に弱い立場にいる人たちの生き難さにつながっているのだ。

優生保護法をめぐる運動と裁判の経緯

 優生保護法をめぐる運動には歴史がある。紙幅の関係と力不足で、詳しく書くことはできないが、1970年代の障害者運動と女性運動には、学びになるところがたくさんある[1]。
 今回の勝訴に直結する運動の始まりは、1997年からの飯塚淳子さんと「優生手術に対する謝罪を求める会」の活動だろう。その頃、国・厚労省に対して謝罪を求めても、「当時は合法」の一点張りだったとのことだ。この期間の活動についても、ぜひ、当時を生きた人たちの生の話を参考にしていただきたい[2]。
 2013年、飯塚さんが法律相談会で新里弁護士と出会い、提訴につながった[3]。2015年に日弁連に人権救済の申し立てをしたのを機に、佐藤由美(仮名)さんが仙台地裁に国賠訴訟を提起し、飯塚さんも続いた。仙台で弁護団が結成されるも、初めは「除斥期間が難しいのでは」と、道が見えなかったそうだ。仙台での提訴は、各地の被害者に影響を与えた。自分が受けた手術について、提訴の報道で知ったという被害者も多かった。また、全日本ろうあ連盟が2018年度から実施した実態調査によって、ろう者への手術実態が明るみに出てきた。訴訟提起と支援の輪は少しずつ各地に広まった。

運動に加わり、運動を担う

 私は、仙台で裁判の支援をしていた大学の上級生に誘われ、2019年5月の仙台地裁判決後の報告集会に参加した。優生保護法裁判の最初の判決で、「優生保護法は憲法違反だが、原告の請求を棄却する」という不当判決だった。この日、原告の飯塚さんたちの怒りや悲しみ、「ここから運動で勝ちにいこう」といった弁護士の呼びかけに、自分も何かしなければならないと感じた。学生団体「強制不妊訴訟不当判決にともに立ち向かうプロジェクト」で活動を始めた。主な活動の1つとして、市民の団体と協力して国に対して謝罪と補償を求める署名を集めた。
 2021年11月、私たち学生が呼びかけて、東京の参議院議員会館で集会を開き、国に謝罪と補償を求める署名を提出した。北海道、宮城、静岡、兵庫、大阪の各地会場をオンラインでつないでもらい、原告や支援者[4]に発言をもらった。多くの方々から協力をいただいたこの集会が、全国的な連帯の契機となった部分があるように感じている。
 2022年2月には、全国の支援者で院内集会を開催した。その2週間後に大阪高裁で初の勝訴判決が出た。先の集会の開催をめざしていたチームがさらに組織化され、優生連となった。2022年10月25日には日比谷野外音楽堂で1000人規模の大集会を開催(動画)。ステージから「いのちを分けない社会へ」のプラカードを掲げるたくさんの参加者を目にし、大きなうねりを感じた。デモ行進も力強かった。

2022年10月25日 優生保護法問題の全面解決を求める10.25全国集会

 ここに書いたのはあくまで運動の一部だ。優生連としてひとつにまとまっていきながらも、福岡で5万筆の署名が集まったり、宮城でビッグフラッグを作成したりと、各地、各団体で様々な動きがあった。

問題を定着させた

 運動を振り返って、優生保護法問題が広く知られるようになっていったことを実感している。2020年くらいまで、優生保護法問題は「知る人ぞ知る」問題だったように思う。おそらく障害のある人や、障害のある人とたくさん関わっている人にもそこまで知られていなかっただろう。ここ数年で、この問題は障害者運動の中の大きな問題として考えられるようになった。人権を大切にする人たちの共通認識になった。
 2019年から2021年にかけて私たちが集めた国宛ての署名は1万筆ほどだったが、優生連が去年の9月から集めた「最高裁に対して公正な判決を求める署名」は34万筆だった。数字を比べれば34倍だ。報じるメディアも増えた。最高裁判決の記者会見では150の名刺が集まった。

裁判闘争、政治的交渉だけではない運動

 ここまでで、裁判そのものと、周りの運動とが、両輪となって進んできたことを感じていただけたら嬉しい。原告と、弁護団と、優生連などの支援者が一丸となって闘った。未熟な表現であるが、「裁判闘争でありながら、裁判闘争にとどまらない運動」であったと思う。
 また、裁判の判決に関わらず、私たちの中で国の加害性は明らかであった。そのため、国が裁判で争うのをやめて、謝罪・補償をすること、いわゆる「政治的解決」を求めてきた。この過程でも、政治家への陳情だけを行っていたわけではなかった。
 「優生保護法は終わったが、優生保護法問題は終わっていない」
 最高裁で勝訴したことは大事な到達点であったが、最高到達点ではない。優生保護法問題はまだ終わっていない。今後、国は、生きているすべての被害者へ、尊厳回復に足る補償をし、差別のない社会への具体的な策が講じられなければならない。私たちは今後も国と対峙していく。

運動の場が「ともに生きる」の実践

 運動の内実に目を向ける。この運動は、様々な人が運動の担い手になっている。優生連の会議では、当然、聞こえない人も、見えない人も議論をする。問題解決に向けて進んでいくための議論ができるよう、会議の運営についても、当事者やサポートしている人から指摘を受けながら工夫してきた。手話通訳は必須で、健常者だけの会議ではあまり聞かない注意事項もある。
 イベントをするにも、誰もが参加できるようにしていく。知的障害のある人に向けて資料の漢字にルビを振ること、視覚障害の人に向けてチラシのテキストデータも添えることなど、必要なことをやってきた。地味に思われるかもしれないが、大事なことだ。課題もたくさんあるが、「ともに生きる」「誰ひとり取り残さない」といった目指す社会のありかたが、運動の内部で実践されていると思う。
 最高裁は、今回の判決の日に、史上初めて傍聴人向けの手話通訳者を公費で手配した。優生連や弁護団が何度も求めてきたことだ。司法の場での手話通訳、加えて車椅子対応などの諸々の配慮がなされたことは大きな意味をもつ。

優生保護法がなくなってから生まれた世代として

 優生保護法が改正されたのが1996年。私は2000年生まれで、「優生保護法がなくなってから生まれた若い世代もこの問題に取り組みたい」「同世代にもこの問題を知らせたい」などと言ってきた。この5年間、優生保護法の問題に注力してきた。ただ、正直、同世代に広げることはできていない。特に優生連としての活動が盛んになってからは、一緒に動ける人と動いたという感覚だ。優生連でコアに動いてきた中では最年少だった。できることはたくさんあったし、学ぶことも多かった。社会が変わっていく手ごたえがあり、希望を感じられた。
 同世代やさらに若い世代の仲間が増えれば、できることはもっと多くなると確信している。多くの人に、これからも続く闘いに加わってほしい。

ヘルパーになり、思うこと

 最後に、私個人の歩みを記しておく。私は大学卒業後、仙台市内の訪問介護事業所に勤め、障害のある人のヘルパーとして働いている。大学1年生の時から優生保護法問題を中心に、障害のある人を取り巻く現状について学び、考え、取り組んできた。「学生運動」で終わりにするつもりはなく、働いて生計を立てながら運動を続ける道を探る中で、介助をやりたいと思うようになった。
 理由としては、もっと具体的に障害のある人の生活を知り、支えていきたいと思ったことが大きい。もちろん、「差別するな」「障害があっても生きさせろ」と主張することは、障害者に関わっていてもいなくても、やっていくべきだし、やっていいことだ。ただ、私はさらに踏み込んで、具体的に一緒に生き、どんな困難があって、困難とひとくくりにしない生き方がどう成立しているのか体感したいと感じた。そうすることで、説得力も実効性も増すのではないかと思った。
 また、活動を通して、実際に介助する人・される人に出会い、背中を押された。優生連のメンバーや弁護団の中にも、かつて介助をしていた人、今もしている人がいる。皆さん「良い仕事」「やりがいがある」「ぜひ目指してほしい」と、心から思ってる様子で伝えてくれた。一般的に低賃金と言われる仕事であることの心配もあったが、「食べていける」と説明してもらった[5]
 ヘルパーになって約1年、仕事を通じて、手術をほのめかされた経験がある人にも出会った。優生保護法があったら手術をされていただろうと思う状況もあった。人間らしい生活を担う責任を感じることもあった。
 ヘルパーとしての自分は、理想にも、求められるあり方にもほど遠く、1年以上働いても1人前になれないままだ。前述のような経緯と思いがあって仕事を始めたものの、自分の態度や力量次第で、介助される人の権利を侵害してしまうことを実感している。
 実際に、福祉職が加害側に回ってきた歴史もある[6]。 「月経の始末が大変」という理由で子宮摘出などの優生手術を強いたり、施設に入所するための条件に優生手術を課していたりという実例がある。権利を侵害する側にも容易になりうる仕事である。  
 今回の最高裁判決は、障害があっても、子どもを持つか持たないかを自分で決める権利(リプロダクティブ・ヘルス・ライツ)を保障することを明確にしたが、「障害者は子どもを産むべきでない」「子どもに障害があると分かったら産むな」という声を跳ね返せるような実例や制度が必要なのではないか。子どもに関すること以外にも、「障害」を理由に諦めさせられていることがたくさんあるのではないか。最高裁判決の日、自分のヘルパーの仕事を代わってもらって現地入りした私は、制度や介助者不足によって自由な外出が難しい障害者がたくさんいることが頭を離れなかった。
 問題は山積みだ。運動は続けていくし、ヘルパーとして取り組めることもたくさんあると感じる。ヘルパーの仕事をしっかり行いながら、介助の現場を見て気づくことを積み上げ、分析したり、声をあげるべきところで声をあげたりすることで、「いのちを分けない社会」をつくっていきたい。
 さらに、今後、介助などの「ケア」や「エッセンシャルワーク」がより重んじられ、社会の中心になることが大事だと考える。生存権を守ることに直結することはもちろん、多く生産するのではなく、何も生産しなくても日々を生きていくこと、生活を支えることは、環境負荷をおさえることにもつながるなど、深めがいのある分野だと思う。ここまで読んでくださった方々に、運動にも介助の仕事にも関心を持ってもらえたら嬉しい。

脚注

[1] 当時を知るのにおすすめの文献:
荒井裕樹『差別されてる自覚はあるか 横田弘と青い芝の会「行動綱領」』現代書館、2017年
荒井裕樹『凜として灯る』現代書館、2022年

[2] 参考:優生手術に対する謝罪を求める会『【増補新装版】優生保護法が犯した罪: 子どもをもつことを奪われた人々の証言』現代書館、2018年
優生連の共同代表である大橋由香子さん、利光恵子さんは当時から今までこの運動に尽力している

[3] 飯塚さんと新里弁護士の歩みについて、CALL4の記事が参考になる。
16歳で知らずに受けた不妊手術。強制した国に謝罪を求め、声を上げ続ける|公共訴訟のCALL4(コールフォー)https://www.call4.jp/story/?p=2029

[4]  原告(と原告家族)と弁護団以外の人で、裁判を支援している人、ともに声をあげている人という意味での「支援者」である。

[5] ヘルパーの働き方、特に生計を立てる実情についてはこちらが参考になった。立岩真也『介助の仕事 -街で暮らす/を支える』筑摩書房、2021

[6]  参考 藤井渉『ソーシャルワーカーのための反『優生学講座』――「役立たず」の歴史に抗う福祉実践』現代書館、2022年

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