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1068_目的と手段

事実上の無職(事実上も建前上もない。会社から要らないものされていることについていえば変わりはない)になってから、毎日、家の近くの図書館に通い続けている。

やることもないので、きちんと毎日のルーティンに組み込まないと、途端にダラけた生活になってしまう。これまでには、仕事という抗えない「自分ではどうしようもできない、仕方のないもの」が自分のなかで存在していて。それによってある程度、律されていた部分があったのだと思う。

そこで、自分に対しての何かしらの強制力のようなものがあったから、内外との絶妙なバランスで自分という存在が規定されていたんだなと気付かされる。そうじゃなきゃ、すぐに四方八方にバラバラに四散してしまうところだ。

それくらい、自分の存在なんて不確かで定まっていないものだった。「働かざる者、食うべからず。仕事をしてなければ人にあらず」と親から言われて育ってきたことも大きいのかもしれない。

(その割に、親父は万年平社員で出世からは程遠く、毎日休まず出勤することだけに特化していたようだ)

いったい何につなぎとめられて、この世に存在していていられるのだろうかと、本当に途方に暮れてしまう自分がいる。

仕事がなくなった代わりに、なにかで穴埋めをしなければならない。というわけで、図書館に行くことを自分に課すことにした。家にずっといるよりかは、外界からの刺激を受けることは自分にとっては有益であると感じる。

例えば、受付の清楚で眼鏡のかわいい女の子の目もあるので、髭が伸びっぱなしだったり、シャツがシワシワであったりすると当然みっともない。

毎日図書館に来ている時点で、十分にみっともない存在であるかもしれないが、それは研究のためにずっと関係する文献を漁っているだとか、それらしい言い訳を立てればいい話だ。

それも、もし、万が一、受付のお姉さんに「毎日、来られてますよね」と話しかけられた場合の話だが。ありえない可能性を信じて、僕は今日も襟を正し背筋を伸ばして、図書館のカウンターをくぐることにしている。

特に本を借りたりはしない。だって、毎日この図書館に来て一日中、本を読んでいるので、到底、家に持ち帰ってまで、読もうなんて気が起きない。

本を読むこと自体はそこまで苦痛ではないにせよ、元来、読書漬けとなるまでの活字中毒に至るまでもない。

「最低限、嫌いとまではいかないから、できてる」ようなものであって、どこか仕事に似ているなと思った。だいたいみんな同じようなものなんだろう。

哲学や思想など、読みがいのありそうな難しい本にも挑戦したが、残念ながら性に合わなかった。マルクスに「資本論」とか、プラトンだとかアリストテレスだとか。いやいや、なんでもそこまで難しいことまで考える必要があるんですか、って気になってくる。

なんのために生きるのか、なんのために働くのか。みんなそんな難しく物事を突き詰めずに日々の生活を送っているわけで。僕なんて、やることがないから毎日図書館に通っているわけだけど、「なぜ図書館に通っているのか」

その点、エッセイや旅行記なんか気軽に読みやすくてよい。そもそも僕にとって、図書館に来ることが目的であって、読む本など何でも良いのだ。だが、図書館は本を読むために来る場所のはずである。

昔、おまえはよく目的と手段を取り違えるな、と学生時代の友人から指摘されたことを思い出した。

その時も同様に何かの目的と何かの手段を取り違えていた気がする。はて、いったい、僕はこれまでも何回もこういったミステイクを重ねてきたのかもわからない。

その度に、それでもいいのだ、と自己を正当化してきたのだ。仕事に関してもそうだ。上司の了解を得るためにペーパーを作る。目的と手段は明確だ。

それがいつの間にか、ペーパーを作ることが目的となってしまい、上司の了解などそっちのけで、どこまで自分がこのペーパーに納得できるかばかりを追求してペーパー作りにのめり込んでしまった。

気付けば1ページの報告書に3時間かけていて、そうしたら、誰にも理解してもらえない、過度に概念的なペーパーができあがったというわけである。

仕事のためのペーパーなのか、ペーパーのための仕事なのか。目的と手段をすぐに取り違う僕にとって、自覚しえないながら、深刻な問いだった。

自分にとって仕事とは何なのか、ペーパーを作らない仕事は自分の中で存在していなかったのか。もはや、定かではないし、確かめる術もない。

その後、漏れなく僕は社内ニートとなり、仕事をあてがってもらえなくなった。そのうち、仕事をするために会社に出勤することを、案の定、また取り違えてしまった。会社に出勤するのが目的となって、仕事のことは二の次三の次というわけだ。

それは自分の親父も辿った道であった。親父はいい時代だったから、幸いクビにならずに済んだわけだが、いかんせん時代が違う。

そして、別に会社に出勤しなくてもいいじゃないか、というわけでやることもなく、都内をずっとブラブラ散歩してしたりして、当然、仕事はクビになった。そして、僕は今、図書館にいるというわけだ。

生きる時代が違うだけでこうも境遇が違ってくるのだなんて、理不尽極まりない。だが、はて、生きるために仕事をしていたのに、仕事自体がなくなってしまうと、もう何も取り違えようがなくなってしまったというわけだ。

目的と手段、目的と手段、目的と手段…
手段と目的、手段と目的、手段と目的…

はて、どこで入れ替わった?
僕はいったいどちらのために存在している?

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