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「はい、じゃあ、この電柱から駅まではマインドフルウォークね」
「ああ、忘れてた。昨日言ってたやつね」
「そう。早速やってみるからね、いい、じゃあ、はいスタート」

妻と僕はそこから一言も喋らずに、高架下の線路沿いの道を淡々と歩み続けた。頭の中ではつとめて何も考えずに、ただ自分の呼吸だけに意識を集中して、一歩一歩足で地面の感覚を確かめてみる。

もちろん目を閉じてしまうと危ないので、どこにも焦点を定めない感じで、転ばずに誰かにぶつからないようにだけ気をつけて、進み続ける。

妻が言うところ、マインドフルウォークというらしい。妻は最近、瞑想やマインドフルネスの本を読み漁っていた。その前には「スマホ脳」というベストセラー本も読んでいた。その点と点をつなぎ合わせると、こうだ。

「私、ずっと考え事をし続けてるの、常にずっと」
「あまり気にしない方がいい。僕の母も心配ごとをしてないと心配になるから、最近は自分で心配ごとを作り出しているようになったよ。近所の野良猫の行方とか」

「そういうんじゃないの。私、いつもいつも考えが考えを呼んで、ひたすらとっ散らかっちゃうのよ。最近、特にそう。スマホもその原因のひとつになんだろうけど、気の散ることが多すぎて、まるで水面から息継ぎしようとアップアップしているようなものよ」

「そんなに大変なのかい」
「大変よ、大変。だから脳の意識の棚卸しが必要なんだって。マインドフルネスはそれにとても効果的なんだって。でもね」
「でも?なにか問題が?」

「私、やっぱりじっとしてられなくて、座ったままでいるのさえ、本当に苦手で。その間にとめどなく考えが考えを呼んでって。始終、テレビのチャンネルのザッピングしてる感じ」
「まあ、君の話を聞いているとそんな感じはするわな」

「だからね、動いていたほうがよくて。マインドフルウォークっていう、散歩したり歩きながらできる瞑想の方法もあるのよ。これなら駅までの通勤までの間にもできるはず」
「ほう、そりゃ名案だ」

これが昨日、ベットルームで夢現に妻と話した内容だ。すっかり忘れていた、マインドフルウォーク。果たして考えないでなんていられるのか、いや、いかんいかん、考えちゃいけない。

考えちゃいけないってことも考えちゃいけない。考えるな、感じろ、自分の呼吸、足で地面を踏み締める感覚、周囲の雑踏と自分との距離、ずっと降っていなかった久しぶりの冬の雨の湿った感覚。全て、すべて。

「はい、終わり」
「え、もう終わり?」
「そ、だって駅着いたから。どうだった?」
「いやまあ、何にも考えちゃいけないってことを考えてた」
「まだまだね、まあ私もだけど。これ、明日もやるからね」
「やれやれ、望むところだ」

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