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1059_EVISBEATS「Arayashiki」

兄が中学を卒業するタイミングで、私たち一家は鹿児島県の離島に引っ越すことにした。私はその時、小学校高学年で、母から唐突にこう切り出された。

「あの子が一番自由でいられる環境がいいと思うの。どう思う?」

どう思うもこう思うもないだろう。そんなの、それが一番いいに決まっている。兄のためになることが一番良いに違いない。少なくとも我が家にとっては。だって、すべて兄が中心でこの家はまわっているのだから。

私はその中の単なる1個の歯車でしかない。歯車にそんなこと聞いても、「私は歯車でしかないですが、そうですね」としか言えないに決まっている。母は単に自分が聞きたい答えを私に求めているだけだった。

子どもはいつも親に無意識に忖度する。反抗期の萌芽との間に、少しばかり葛藤もあったが、私はこう答えざるを得なかった。いかにも、私もそうだよ、私もそちら側だよ、と言わんばかりに。私は家族という群れから離れられない小さなお猿さんなんだから。

「いいんじゃない。私は賛成」
「うん、そうよね、そうよね。ありがと」
母は自分に言い聞かせるようにそういって、手を叩いた。

兄は生まれつき軽度の自閉症だった。周りの環境に大きく左右されるのため、極度に気が散ったり、精神的に不安定になると、途端に部屋が出てこなくなったり、具合が悪くなったりする。また時には、周りの声が一切に耳に入らないほどの過集中に入り、私達とはまったく違う世界に生きている時もある。

兄に自分の存在は認知されているのだろうか、と感じたのは小学校低学年のときだった。兄に自分の話をしても、決して兄の興味を引くことはできない。次第に子どもなりに「そういうものなのだ」という諦めがついたのか、兄と私はそれぞれの距離感をわきまえた兄妹となって、この家で生きていくすべを得た。

どうやら、東京は兄にとって過度な刺激が多すぎるらしい。私達が住んでいたのは世田谷の住宅街であったが、少し繁華街にでも出れば、雑踏や人混み、看板のネオンサイン、都市間を行き交う車や電車など当たり前にある。だが、そのすべてがそれぞれ異なる形で一斉に彼の脳に不規則にサインのようなものを送り続けているというらしい。(兄は「せめて、どれか一つにしてほしい」とよく言っていたが、当時の私にはよくわからなかった。)

私たち家族は、そんな兄にかかずらうしかなかった。この場所は兄にとっていいか悪いか、それだけが家族の判断基準だった。だから、家族でディズニーランドにも行ったことがなかった。私が行ってみたいとぼそっとつぶやくと、気を利かせた叔母が「お母さんたちには内緒よ」と言って連れて行ってくれたりもした。

もちろん楽しかったが、子どもながらに「この楽しみを家族の誰とも共有できない」という事実が私を暗くさせた。「あれ乗りたいー」と親にせがむ子どもの姿が眩しくて仕方なかった。私はわがままを親に言ったことがないのだ。すべては兄のために。それが私達家族の至上命題だったから。

ほどなくして、私達は東京を出て、鹿児島から少し大きめのフェリーに揺られて1時間ほどの、新天地のこの小さな島でそれぞれの生活をはじめることになった。確かにこの環境は兄に合っていたらしい。山や海を日がな眺めることは、彼にとっての脳のチューニングを整えるのに適していた、ということだったのか。

兄は島の生活で少なからず心が乱れると、砂浜でずっと波の音を聞いていた。おそらく打ち寄せる波のリズムが彼にとって一番心地の良いものだったのだろう。そして、ボロボロになった「世界の終わりのなんちゃら」という小説を何度も何度も読み返している。

父はもともとプログラマーだから、家でも特段支障なく仕事もでき、母は専業主婦となってたまに地域の畑の手伝いに出かけていった。この島に来て、それまで兄中心でまわっていた東京の生活が一変し、私達家族はそれぞれ自分の時間を持てるようになった気がした。

私はそれなりに島の子たちとも打ち解けて、ほどなく親友と呼べる子もできた。我ながら適応能力があるのだなと思ったのは、単に群れからこぼれ落ちたくないという思いの裏返しでもあったのかもしれない。

私は家族という最小単位の群れの中で自分の立ち位置を常に意識していた。この群れは兄を外界から守るという共通の目的を持っていたが、それがゆるやかに瓦解していたように感じる。

きちんとそれなりに周りと折り合いをつけて、どこでもなんとか生きている反面、どこか自分の望む場所に主体的に行きたいなどという気もおきなかった。確かに島の暮らしは退屈で変化も少ないのだが、だからといって、東京の刺激が恋しいということにならない。

なんとも不思議なバランス感覚だった。東京では兄は強すぎる外界の刺激が自分という存在の下に浸透して内側がズブズブになっていたのだが、私は東京でもこの島でも外界からの刺激に対しては、一定の浸透圧を保つことができたのだから。

私は適度な刺激を自足する術として、漫画を書き始めた。というのも漫画好きな親友の影響で、放課後二人で島の図書館であれやこれやと漫画を書き続けた。それはそれで楽しかった。その漫画には、容姿はそのままで(私から見ても兄の顔立ちは端正だった)、社交的でスマートな兄のようなものが存在する。

想像の中の兄は、あらゆる困難な状況でもそつなく解決することができた。理想の兄といったら気恥ずかしいが、たしかに本当はこうだったらいいなという私の願望を無意識に反映させていたのだろう。

「ねえ、こんな状況で、なぜ、そんなに落ち着いていられるの」
「へ、よく考えてみろ。今はジタバタしても無駄だぜ。こういうときには寝るに限る。俺は先に休むよ、じゃあな、おやすみ」
「まったく。無神経にもほどがあるわ!」

こんな漫画のセリフを兄が喋る姿を夢想する。私の漫画の中で、時には軽口を叩きあう凸凹コンビの相棒として、時には絆の強い頼れるパートナーとして、さまざまな姿を借りて兄は登場した。

たぶんこの漫画を兄に見せたとしても、兄の興味を引くことは決してないし、まさか自分がモデルになっているなどとは夢にも思わないのだろう。彼は刀を武器に大立ち回りを演じることはなし、宿命のライバルとの戦いに心を踊らせることなど決してない。

だが、現実に存在しないが、兄は兄であった。私は兄の存在しない世界を望んでいるわけではなくて、あらゆるキャラクターとなる兄の姿を通して、私は私で新しく兄のいる世界を再構築してみたかったんだろう。

おそらく私は創作という小さな世界の中で兄と対話している。実際の兄と私は決してスムーズに話が通じないし、そもそも同じベースの世界線に立ってはいない。もしかしたら、兄にとって私は外界のノイズのひとつでしかないんじゃないか、ってたまに考える時があるくらいだったけれど。

あのとき必死になって描いていた漫画を見て、私のいる世界に兄は必要な存在なんだと気付いたのは、それからもっとずっとあとの話になる。大人になってから、たまに島に帰ると、兄は母と一緒に黙々と野菜の収穫を手伝っていた。繊細そうな端正な横顔に、ひと粒の汗がつたう。私はその姿を眺めているだけで、満足することができた。


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