見出し画像

183_Waterweed「Diffuse」

夏の夕暮れ、少し風が出てきた。湿気を混じった空気が肌にまとわりつく。俺らの住む団地は変わらずそこにある。いつものように自転車で帰ってきたら、ちょうど団地の公園でアイスを食べている幼馴染の亮太に出くわした。棟や部屋ごとでまったく代わり映えのないこの団地で、同じことを同じようにして同じように成長した。ただ不思議なことに亮太の頭の出来は自分とは段違いだった。そこだけは不公平に感じる。

「よお」
「おう、お前またアイス食べとんのか」
「アイス中毒なんや。夏はアイスだけ食ってりゃいいんや、俺は」
「まったく。元久にいちゃんの試合、見にいくやろ、明日」
「ああ、もちろんな」
「ちょっと、その前に兄ちゃんのとこ、励ましに行かんか」
「今、たぶん試合に集中してるやろうし、減量の真っ只中やろ?減量しとる間って、食いもんのことばっか考えてまって、めっちゃ機嫌わるいらしいで。てか前も、マジ機嫌悪かったもん」
「いや、でも大事な団地の仲間なんやし、俺らが励ましにきてくれたら少しくらい気分も紛れるやろうて」
「まあな、じゃ行くか」

涼太は持っていたアイスが半ば溶けまくって、手についた溶けたアイスの汁を舐めとっていた。こいついっつもアイスばっか食べてんな。それなのになんであんな頭いいんやろ。自転車を引きながら、亮太と一緒に団地の棟まで一緒に歩いていく。

あまりに強い西日が眩しく、俺らを照らしている。俺たちは生まれた時から、皆、この古い団地で育った。老朽化した団地の壁は、まるで学校の図書館の本で恐る恐る見た重症の皮膚病患者のように朽ち果てていた。いつも見る団地のトレードマークの屋上のタンクを見上げながら、俺は目を細める。

「亮太さあ、お前、どうすんのよ」
「いや、何が。ざっくりすぎるやろ」
「だから、さ。高校卒業したらよ」
「そりゃ、まあ、色々考えるはな」

亮太のことだから、大学に行きたいのだろうとは思ってはいたが、なにぶんこの団地に住んでいる者は皆貧しい。大学に行ける者と行けない者で、明確な線引きというものがなされているのだ。

「元久さんみたいに強かったらな、拳一つで生きていくみたいな」
「それはそれで大変やて。負けられんもん」
「あの人が負けるかい。負けたとこなんて、俺一回も見たことないもん」
「俺ら確かに見たことはないけど、ホントに一生負けられへんってことやん。そりゃ、大変なことやで」
「そらそうやけど」

「出る前に負ける事考えるバカがいるかよ!」亮太は猪木のマネをして、アゴを突き出した。この前You tubeで猪木名場面集を見ていたからわかる。俺たちは大体そんなくだらないことをして、この退屈で荒廃した団地の中で無益な時間を過ごしている。

この団地で皆兄弟みたいに育った俺たちは、この先、良い方にも悪い方にも変わっていく。団地の先輩の中には、安い給料でこき使われても真面目に働いている者も見れば、手っ取り早い儲け話に手を出して今では警察に追われている者もいた。みんな子供の頃は、この団地の公園でイキイキと遊んでいた。この団地の公園の朽ち果てた象の滑り台の上から、狭くて曇りがちの空を眺めていた。

14階の高く高くそそり立った壁のような団地が9棟。飛び降り自殺も多かった。死体も何回か見た。夏になるともう最悪だった。この空の向こう側には、富の象徴のように建設中のタワーマンションが建てられていた。皆、この団地を抜け出そうともがいたり、抜け出した後も結局は帰ってきたり、いろんな愛憎を交えながらもこの団地で暮らしている。

俺はいつかここの団地の抜け出すのか。帰ってこない兄貴の後ろ姿を思い出す。散々、この団地の階段の踊り場でタイマンをした自分の兄貴。結局、あいつには一回も勝てなかった。うちの棟は特に悪い奴が多かったのだが、その中で元久さんと兄貴はこの団地の中で喧嘩の強さでは双璧だった。

高校卒業後、元久さんはボクシングにのめり込み、プロボクサーとして先日デビューしたが、うちの兄貴の行方は知れない。あの兄貴はこの団地を捨てた。今は東京に行っているというが一体何をしているのだろう。噂では半グレとかどっかの構成員になって、人様に迷惑をかけているんじゃないかと母は心配しきりだった。父親は一貫して無関心だった。お前のせいでもあるんだよと俺は親父の背中に呪詛の言葉を無言で投げる。

結局はこの団地でジタバタしながら生きながらえるか、都会のタワーマンションや高層ビルを眩しげに見上げながら、ただただ地べたを這い回るか。そのどちらかしか、俺たちの生き方は残されていないということか。どこかで大きな賭けに出るために、そのチャンスの糸が垂らされるのを待ちながら、俺はじっとりとした汗をかいたまま、今日もこの団地の朽ちた壁を眺め続ける。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?