見出し画像

1091_負債

「ふー、疲れた、ただいま…」

GWは妻と僕は別々にそれぞれの実家に帰っていた。僕の乗った高速バスは渋滞にはまっていたので、定刻より3時間ほど遅れて到着した。

妻からは、「買い物に行ってきます」というメッセージが入っていたので、今家には誰にいないだろうという前提に、独り言をつぶやきつつ、家のドアを開けた。

リビングの床に自分の荷物を置くて、一息をついたあとに部屋の中に目をやると、ふとテーブルの上にある物が置いてあることに気付く。

掌のうちにおさまるほどの、小石ほどある、つるんとした真っ白い物体。フロスをいれるケースかとも思ったが、Air Pods proだった。それも最新のやつ。

おそらく妻のものではないし、専用ケースが付いていないサラのものなので、当然のことだが、今自分の耳につけている僕のものですらない。(そもそも僕が今つけているのAir Pods proは、2世代ほど前のものだ)

僕は戦慄した。このまっさらなAir Pods proに身に覚えがあるからなのだ。服の下の肌に嫌な汗をかいているのがわかる。

それは、2週間ほど前の話だった。海外出張から帰ってきた妻から、ある物を見せられた。それは真新しい最新のAir Pods proだった。

「飛行機が着陸してシートベルトの着脱のサインが出たから、ああ、降りなきゃって足元見たら、これが落ちてて、私のだと思って拾ってきちゃったんだけど、家帰ってみたら2つあったの」
「つまり」
「誰かが落としたものを、自分のものだと勘違いして持ってきちゃったみたい」

妻があっけらかんとしている様子を見て、はあ、そうですかと話を聞いていたが、結局じゃあこれをどうするのかという話になった。

「このAirpods proって、これ自体にGPSついているから、元の持ち主がiPhoneで探せば、この家にあるんだってもう目星がつけられるちゃうのよ」

気味が悪い、と妻が言って、すぐに警察に届け出るか捨てて来てよ、と僕に頼んだ。(自分で間違って拾ってきておいて、僕に捨てろと言うのかとも思いつつも)わかったよ、と僕は言って、じゃあ明日にでもやっておくからと答えた。そして、それをそのまま自分の洋服ダンスに入れっぱなしにしていた。

しかし、その間に、僕の内奥からモクモクとある感情が生まれてきた。
「なにしろ、最新のAirpods proだ。このままこいつを捨てるのはもったなさすぎやしないか」
「GPSが付いているからといって、元の持ち主が探してなんてこないさ。ほとぼりが冷めるまで持っておいて、そのあとしれっと自分のものにしちまえばいいんだ」
僕はこれらの心の声に抗うことができず、結局、そのままにしておいてしまっていた。

そして、今、僕がタンスの奥深くにしまっていたはずのAirpods proが、まるで死刑台の上の晒し者のようにテーブルの上に放置されている。

これはきっと、妻がわざとこうすることによって、「まさか、お前はこれを自分のものにしようとしているんじゃないよな」と釘を刺しているのだとすぐに察した。妻は言うまでもなく、聡い女性だ。

ああ、しかし、なんで僕が捨ててないことがバレてしまったのだろう。タンスの中なんかじゃなくて、もっとわかりづらい場所に隠しておけばよかった。しかし、今更後悔してもすべてが遅きに失している。

我が身の失策を嘆きながら、心の底ではわかっている。君の言うことが正しい。いくら言い訳をしても、結局虚しいことであることも。

心にやましいことや後ろめたいことがある状況、いわゆるお天道様に顔向けできない時に、人は考え方の視野が自然と狭くなって、いつのまにか狷介でろくでもない人間にしてしまう。

暴かれたくない嘘やずっと心の奥底にしまっている過去の過ちは、今ある自分の心の中のメモリを大量に消費して、思考力を奪っていくからなのだ。

心に負債を負っているとき、決して、目の前の空を青く広くとらえることができないだろう。自分の視点が斜めに歪んでいれば、世界をありのままに見ることができなくなるためだ。

そうなってしまった時に、人は元の己の形を忘れて、他人に空威張りでもしたり、マウントして、見せかけの自分をまるで重要人物のように大きく見せようとする。だが、それは間違っている。自分は弱くちっぽけな男でしかないのだから。

妻はやはりこんな自分のことを戒めて、正しく導いてくれる。僕はこいつを自分のものにしてしまおうとした軽率な心を悔いて、妻が帰ってくるまでの間に深く内省した。

そして、この出来事はあくまで端緒でしかなくて、心の棚卸しが必要なのだと気付いた。一事が万事という言葉がある通り、すべてに通じることだ。

僕はこれまで背負った負債をちゃんと下さなければならないのだと悟った。今まで見てみぬふりをしてきた些事、謝ることのできなかった過去の過ち、向き合うべき心底に積もり積もったヘドロ。これら、すべて。

TODOリストにしてみると、軽く吐き気を催して、お腹が痛くなるような代物になった。でも、やらなければいけない、一つ一つ。絡まったコードを解くように、根気よく、粘り強く、腹を決めて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?