第2回 視覚障害のある教員として、小学生が社会に出る基礎を築く~片平考美さん~【前編】|マイノリティのハローワーク|現代書館
片平考美(かたひら・ちかみ)さんプロフィール
視覚特別支援学校教員、日本視覚障害者団体連合(日視連)(注1)青年協議会(注2)会長。生まれつきの神経異形成症(注3)のほか、左目の緑内障(注4)、右目の白内障(注5)など眼疾患が重なり、元々ロービジョン(注6)であったが、小学1年生のときに左目を失明する。7回の眼の手術を経て、現在は左目失明、右目は視力0.4程度、夜盲(注7)もある状態。そのため、慣れない道や夜は白杖(注8)を使用する。
「みんなと同じでいたかった」小学校時代
地域の公立小学校か、あるいは特別支援学校か。この悩みは現在でも障害児を育てる親御さんから耳にするものです。生まれつきのロービジョンがある片平さんの就学についても同様です。片平さんの就学先は先に挙げた二択のどちらでもなく、私立の小学校に決まりました。
あまり聞かない選択肢に思えますが、片平さんによると、「20人程度の少人数のクラスで教員の目や配慮も行き届いていて、過ごしやすかった」そうです。ルーペを使い、前の席で授業を受ける形で、小学校4年生までを私立の小学校で過ごしました。
配慮と言っても、障害があることを過度に意識させられることはなく、片平さん自身もある時期までは左目が見えないと強く意識していませんでした。「左目が見えていないせいで転んでいるのに、足の長さが違うからだと思っていたんです」と当時の障害認識を振り返ります。
私立の小学校での時間を「他の人にも合うかはわからないけれど、私は通ってよかったです」と片平さんは言葉にしてくれました。小学校受験を伴うこと、学費は公立よりも高額になることもあり、親子ともに負担もある選択肢ですが、考えてみる価値はあります。
環境の変化で不登校や保健室登校も経験
家庭環境の変化のため、小学校5年生からは地域の公立小学校に通うようになった片平さん。そこでは今まで通っていた私立の小学校とは大きく違い、「障害があるから危ない」と体育はじめ多くの活動を制限され、戸惑いました。特に、校外学習の沢登りを止められたことは大きな衝撃でした。
視力も落ちてきて、電子辞書や芯の太いシャープペンシルといった「人と違う」アイテムを使用しなければならないことも当時の片平さんにはつらいことでした。学校に行くのが嫌になり、家にいる日も多くなりました。そんななか、視力のこともあり、平日は寄宿舎、週末に帰宅する形で盲学校(注9)に通い始めました。
盲学校では大きく環境が変わります。私立の小学校でも、公立の小学校でも、「見えない人」だった片平さんですが、盲学校では相対的に「見える」側になったのです。友だちは皆自分より見えていないため、頼りにされるのが嬉しく、「盲学校の先生になりたい」と考えるようになりました。
しかし、平日は家族と離れて暮らす生活があまりにもつらく、月曜日の朝に家族に盲学校まで車で送ってもらったときは別れを泣いて嫌がる片平さんを当時の担任がどうにか教室へ連れて行くほどでした。そういった状況もあり、小学6年生の3学期に地域の公立小学校に戻りました。
そのまま地域の公立中学校に進学しますが、教室で一人だけ拡大読書器やルーペを使う気にもなれず、家や保健室で過ごす日々でした。小学4年生までいた私立の学校の編入試験を受け、中学2年生でよく知った仲間の元へ戻ってからは楽しく学校生活を送ることができました。
障害について話す必要性を強く感じた研修交流
教員を目指し、大学での教育実習に挑む前、片平さんは意を決して教授に「私、目が悪いんです」と視覚障害について伝えました。それまでの大学生活では困ったことがあっても支援を頼ることなく頑張ってきてしまい、教育実習の前に「自分一人の問題でないから」と勇気を振り絞りました。教授には「言うのが遅い」と怒られましたが、それほどまでに言いたくなかったのです。実習先は母校の私立小学校で児童数も少なく、他の教員に代わりに文字を読んでもらう以外に大きな配慮の必要性は生じませんでした。
片平さんは無事に小学校の教員免許を取得し、2007年に視覚特別支援学校の教員として採用されました。意外に思えるかもしれませんが、視覚特別支援学校で視覚障害のある教員が普通教科を教えるのは珍しいのです。片平さんによると、視覚特別支援学校にいる視覚障害のある教員のほとんどは、理療(注10)を教えています。
視覚特別支援学校で6年勤務した後、片平さんは研修交流の制度を利用して公立小学校の教員も経験しました。視覚特別支援学校は必然的に児童数が少ないため、児童数の多い公立小学校で経験を積んでみたいと手を挙げたのです。全校児童400人の前で、「先生は目が見えにくいので、呼んでから話しかけてください。物を落としてしまったら拾えません。服装が変わると誰かわからないので名乗ってくれると嬉しいです」と障害開示をしました。
研修交流は3年間と決まっていましたが、最初の2年間は担任を持たせてもらえませんでした。片平さんの積極的なアピールや加配の支援員(注11)の配置により、最後の1年は1年生の担任をすることができました。その経験は視覚特別支援学校でも活かされています。
3年間の研修交流を通して、片平さんは「障害のことは言わないとわかってもらえない」と痛感しました。視覚特別支援学校では何となくわかってもらえることも少なくないですが、公立の小学校ではそうはいきません。障害開示をして助けてもらったり、決まった位置にはんこを押すためにダンボールでアイテムを自作したりと、工夫を重ねていきました。
【後編】に続きます