1.新たな旅のはじまり|フルインクルーシブ教育の現場を訪ねて~イタリア・ボローニャ滞在記~|大内紀彦
数年にもわたって世界中を震撼させたコロナウィルスの大流行もあって、イタリアを最後に訪れてから、5年もの年月が過ぎ去っていた。前回イタリアを訪れたのは2017年の暮れのこと。真夜中の0時すぎのエミレーツ便で羽田空港を出発し、かつて長い留学生活を送ったヴェネツィアに舞いもどったのは、12月23日。底冷えのする、薄暗い午後のことだった。縦横無尽に張りめぐらされた運河に、400以上と言われる橋が架けられた「水の都」を行きかう人びとは、誰もが厚手の上着に身を包んでいた。
ヴェネツィアの空港からバスで本島に向かう道すがら、その当時、飲食店に勤めていた旧知の友人に連絡をとってみると、すぐに返信があり、ちょうどいま荷物運搬用の船をはしらせて、ヴェネツィア本島の玄関口であるローマ広場(空港から来るバスの終点でもある)に向かっているという。思いがけない偶然から、ヴェネツィアに到着するや、旧友と落ち合うことができ、しばし再会を喜びあった。そして、食材などが積み上げられた船に乗り込み、ヴェネツィア本島の真ん中を流れる大運河を通って、サン・マルコ広場近くの友人が住むアパートまで送ってもらったのだった。
この時は、勤務先の冬休みをめいっぱい利用した旅だった。ヴェネツィアに到着した夜には、友人たちとレストランで夕食を楽しみ、その後は、トスカーナ州ヴィアレッジョの友人宅でクリスマスを過ごすと、12月28日にはスペインのマドリッドへ飛んで、日本から来た友人二人と合流、夜空を鮮やかに照らす、年越しの花火を眺めたのは、ポルトガルのリスボンだった。
さらに、年明けの1月3日には、スペインのアルへシラスから連絡船でジブラルタル海峡を渡り、モロッコへと移動した。そして、モロッコの港町タンジェで、予約しておいたレンタカーを借り受けると、友人の運転でモロッコを南下し、フェズの町へと足をのばした。旅の最後の夜を過ごしたカサブランカから、日本にもどるための岐路についたのは、たしか1月6日のことだった。今となっては遠い昔のように思える、懐かしい旅の記憶である。
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あれから5年以上が経過した2023年の4月7日の深夜、偶然にも、ぼくは前回のイタリアへの旅と同じく、0時すぎに羽田を発つエミレーツ便に乗っていた。めざす目的地は、イタリア北部に位置する古都ボローニャ。ここでの滞在予定はおよそ1年。滞在の目的は、イタリアの「ぺダゴジア・スぺチャーレ(子どもたちが持つ、障害などの個々の教育的ニーズに応じて行われる教育のこと)」の研究と、現地の学校で行われている実践を身をもって体験することだ。
教育学という分野についていえば、ヨーロッパ最古の大学といわれるボローニャ大学(創立は11世紀に遡る)は、イタリアをリードする教育機関の一つだといえる。くわえて、この大学の教育学部で教鞭をとる教授たちには、著名な方々も多い。
また、地理的には北イタリアに位置するとはいえ、ボローニャはイタリアの主要都市を結ぶ交通の要衝でもある。特急列車を利用すれば、北西に位置するミラノまで約1時間、北東の方角のヴェネツィアまで1時間半、そして、南下すればフィレンツェまでわずかに40分、そのまま列車に乗って1時間半もいけばローマという非常に恵まれた立地にある。もちろんボローニャの空港を活用すれば、その他のイタリアの主要都市にも容易にアクセスすることができる。イタリアの複数の都市の小学校や中学校、そして学校に関係する機関の調査をしたいと考えているぼくにとって、1年間のイタリア滞在にふさわしい町は、ボローニャをおいて他に思い当たらなかった。
3月の末に勤務校の業務を終えると、ぼくは、役所や銀行を駆け回って休職と転居の手続きをすませ、スーツケースに無造作に荷物を詰め込むと、慌ただしく日本を出発したのだった。
ところで、ぼくは、障害のある子どもたちが在籍する特別支援学校の教員である。この職に就いたのは2013年の春のことだから、今年で仕事をはじめて10年という節目の年に当たっている。支援学校の教員となってから最初の数年は、寸暇を惜しんで、イタリアの精神医療改革の翻訳紹介に精をだしていた。2004年から2010年におよんだ以前のイタリア留学生活のなかで(この期間の研究対象は歴史や文学だった)、イタリア北東部の国境の街トリエステを主な舞台として、1970年代に大々的な精神医療改革が行われたことを知り、大きな衝撃を受けた(1978年に成立した通称バザーリア法に基づき、イタリアは精神病院の廃止に向けて大きく方向を転換した)。それ以来、この改革の理念や実践をなんとか日本に紹介したいと念じてきた。そして、この思いは、志を同じくする方々との協同作業によって、翻訳書2冊の刊行として、どうにか実を結ぶことになった。
日本でのイタリアの精神医療改革の紹介に一つの区切りがついてから、ここ5年ほどの間は、イタリアの「ぺダゴジア・スぺチャーレ」への関心をますます募らせている。それは、端的にいって、日本の特別支援教育に対して、どうにも釈然としない、割り切れない疑念を膨らませてきたことの裏返しでもあった。
周知のように、障害のある子どもたちの教育は、日本では特別支援学校や特別支援学級で行われるのが主流になっている。ぼく自身もそうした教育に携わっている。もちろん、地域の学校の通常学級で学んでいる障害児もいるが、インクルーシブ教育の推進が叫ばれていながら、その数は増えていない。その一方で、最新のデータを見ても、少子化が進行しているにもかかわらず、特別支援学校の数も、特別支援学校に在籍する生徒数も、増加の一途をたどっているのが現実なのだ。
障害児の教育に関わってきた多くの優れた先人たちは、「子どもたちにとって必要な教育とは何か」という根源的な問いと常に対峙しながら、ときには失敗を重ねつつ、教育の改善に努めてきたはずだ。その蓄積が、今日の日本の特別支援教育の礎を形づくっていることは疑いようもないし、その価値を否定したり、過小評価したりしようという意図はない。そこには、我々が今後も継承し、さらに磨き上げてゆくべき教育哲学や理念、そして教育現場で試行錯誤の末にあみ出されてきた教育法が、数多く存在することだろう。
とはいえ、障害のある子どもたちに対して、特別支援学校や特別支援級といった「特別な場」で行われている教育が、「インクルーシブな教育」、そして、その先にあるはずの「インクルーシブな社会」や「共生社会」の実現に果たして貢献するのだろうか。
一般的にいって、現在の日本の教育制度のなかで、地域の学校の通常学級、あるいは通級の指導を受けている障害児は、比較的に軽度の障害を持っている場合が多い。その一方で、重度の障害のある子どもたちの多くが、特別支援学校や特別支援級といった「特別な場」で教育を受けている。こうした教育の場を分けて行われる教育が、どのようにインクルーシブな社会づくりに貢献できるのか。インクルーシブな社会の実現という観点からみると、現在の日本の教育制度を肯定的に捉えることは、少なくともぼくにはなかなか難しい。
2015年から2017年にかけて、ぼくは特別支援学校の高等部に所属する教員だった。その時、高校1年生からの3年間、同じ学年を持ち上がりで担当するという幸運に恵まれた。高等部の3年次には、卒業後の進路をめぐって、生徒本人や保護者たちと一緒に、どうにか本人たちにふさわしい進路先がないかと、頭を悩ませたものだ。3年間を一緒に過ごし、どの生徒にも様々な可能性があると信じていたが、実際に、我々教員が、教え子たちに提案できたのは、わずかな職種の仕事だけだった。選択肢などほとんど無いに等しかった。子どもたちや保護者の方々に対して、教師の一人として、その時ほど強く、あまりに無力で、情けなく申し訳ないという思いに苛まれたことはなかった。
その時、支援学校を卒業していった30名ほどの教え子たちのほとんどは、いわゆる「福祉的就労」をしたが、その就労先が、「就労移行支援」と呼ばれるものであれ、「就労継続支援」と呼ばれるものであれ、あるいは「生活介護」と呼ばれるものであれ、それらのすべてが、障害者だけが集められた職場であることに変わりは無かった。その学年には、卒業後に入所施設で暮らし始めた子もいたが、結局のところ、日本では、障害のある方々の多くが、社会から切り離され、隔離された場所で仕事をし、暮らしていくことを余儀なくされているのが現実である。
いわゆる健常児と障害児を分離して行う教育制度の延長上には、ある意味では必然的な帰結として、分離した社会(職場)が用意されてしまうのではないか、ぼくにはそのように思えた。教え子たちが社会に出ていく姿を思い浮かべても、希望にあふれた、楽し気な将来を想像することはできなかった。想像できたのは、不自由で閉ざされた社会に生きる子どもたちの姿だった。そして、こうした自分自身の経験が、イタリアで行われている「ぺダゴジア・スぺチャーレ」という教育に、さらなる興味を抱かせることになった。
イタリアは、1970年代に、原則として特別な学校や特別な学級を廃止し、世界の国々に先駆けて、もっとも早い段階から「フルインクルーシブな教育」に舵を切った国である。障害児の99パーセント以上が、地域の学校で教育を受けているという統計的なデータが如実に示しているように、イタリアは、文字通りフルインクルーシブ教育を実践している。
2022年9月、日本の障害児教育は、国連障害者権利委員会によって「分離教育」であると明確に指摘され、そうした教育の中止が求められた。その一方で、障害者権利条約の理念に基づいて、インクルーシブな教育の推進を唱えている国連が、もっとも理想に近い教育形態の一つとして捉えているのがイタリアの教育である。その意味では、インクルーシブ教育という観点からすると、日本の教育とイタリアの教育は、まさしく対極にあるといってよい。イタリアのフルインクルーシブな教育に、ぼくが強く惹かれる理由である。
日本の教育を本当の意味で客観的に見つめ直すためには、日本の教育制度からいったん離れて、その制度の外側に自分自身を置いてみることが必要ではないか。イタリアに滞在して、イタリアの教育現場に飛び込んでみることは、ぼくにとっては、自分自身の身に沁みついてきた日本の教育制度の外側に、自らを置いてみることを意味していた。
何年ものあいだ想像を膨らませてきたイタリアの地に、ようやく戻ってきた。これから始まるのは、古都ボローニャでの新たな生活だ。このウェブ連載では、イタリアの大学で学んだこと、そして、教育現場で実際に自分自身が体験したこと、観察したこと、そしてそれに基づいて考えたことを、現地レポートというかたちでお伝えすることにしよう。このイタリア現地レポートを通じて、日本の教育をめぐる制度の外側に、あるいは日本社会の枠組みの外側に、少しでも読者のみなさんをお連れすることができ、イタリアの教育を対話の相手として、日本の教育のあり方を改めて問い直すきっかけを作ることができるとしたら、ぼくの1年間のイタリア滞在の目的は、十分に達成されたことになるだろう。
大内さんが取材を受けた記事が公開されました。日本の特別支援教育の問題点について語っています。あわせてご覧ください↓
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